前回、印旛沼干拓工事が天明6年8月24日に中止決定し、8月27日に田沼意次が辞職願いが受理されたと書きました。
その間に、非常に重要なことが起きています。
それは10代将軍家治の死去です。
「江戸時代年表」(小学館刊)には9月8日将軍家治没と書いてありますが、こちらは幕府が正式に触れだした家治の死去の日のようです。
実際は、8月25日になくなっていたのです。
田沼意次の辞職は、「重要政策が行き詰まり、立ち往生という深刻な事態に、将軍の危篤と死去という重大事が重なるか、政策上の失敗、医師の推薦の誤りの政治責任をとらされた、というのが真相だったのではないか。政治的行きづまりのなかでの政変、と言うべきだろう」 と「田沼意次」(ミネルヴァ書房刊)に書かれています。
将軍家治は非常に田沼意次を信頼していました。ですから、家治の死去ということは田沼意次にとって最大の後ろ盾がなくなったということを意味しています。
そのため、田沼意次の政治が行き詰まりを見せた中で、家治が死んでしまったことにより、27日の意次の辞職願がやすやすと承認されたことになったのではないでしょうか。
このように自然災害の外、政治面でも「大変」が起きた天明6年ですが、この年の収穫は全国で例年の三分の一となりました。
そのため、当然のように、天明8年にかけて全国的に米価高となりました。
江戸でも米価が暴騰するようになり、5月には正月の値段の2.5倍にまで跳ね上がったようです。
そうした中で、ついに天明7年5月18日 本所深川で打ちこわしが起きます。
その打ちこわしは江戸中に広がり、20日には、赤坂・四谷・青山、21日には芝高輪・新橋・日本橋と拡大していきます。
24日までに米屋980軒が被害を受け、さらに酒屋・油屋・質屋等8千軒余も被害を受けました。
この打ちこわしが起きた一要因として、田沼意次を罷免した後、政治的な空白が生じていたことがあげられています。
この打ちこわしは大変激しいもので、町奉行所だけでは取り締まることができませんでした。
『天明の江戸打ちこわし』(片倉比佐子著 新日本新書)によると「当時の町奉行は北町奉行所が月番で曲淵甲斐守景漸(かげつぐ)でした。次々と入る打ちこわしの情報を受けて、町奉行自身出馬したが、その様子は嘲笑を交えて記されている。西河岸辺では『奉行とて何のはばかることがあるか』とののしられ、すごすごと引き取った(滝沢馬琴)、(中略)。昌平橋外では、町奉行の手勢200人が、湯島の方から降りてきた一隊と筋違橋内から出てきた一隊とにはさまれ、多勢であったのに散々に打ち叩かれ、『与力以下役人死人怪我人多し』などと記されている。捕らえようとする同心が逆に簀巻きにされたり、十手を奪われたりとの話もある」といった状態でした。
そのため、5月23日、打ちこわしに対して町奉行だけでは手がまわりかねるので御先手の十組が新たに選ばれて、市中を巡回し、町奉行を手伝うこととなりました。
『飢饉』荒川秀俊著によれば、出動したのは、次の10人です。
先手筒頭長谷川平蔵・松平庄右衛門・安部平吉・柴田三右衛門・河野勝左衛門・奥村忠太郎・安藤又兵衛・小野治郎右衛門・武藤庄兵衛・鈴木弾正少弼
命じられた御先手組には、有名な長谷川平蔵つまり鬼平も含まれています。
御先手組は、市中をまわって、無頼の徒がいたら召捕らえて、町奉行役宅へ渡すように、手にあまったら切り捨ててもくるしくはないと命じられていたようです。
このようしてようやく混乱を治まった後、江戸を三日間無政府状態におとし入れた責任をとらされて、月番の江戸町奉行曲淵甲斐守景漸は、天明7年6月1日、西丸留守居に転出させられました。