田沼意次は、天明6年8月に辞職しますが、それ以降も実質的に田沼政権は継続していましたが、天明の打ちこわしが起きたことにより、ようやく松平定信政権が誕生します。
天明6年12月15日 御三家より大老井伊直幸らに対し、定信老中推薦の意見書を提出されます。
これに対して、天明7年2月2月28日 御三家に対して、老中より正式に定信老中の件、拒絶の回答ありました。
つまり、田沼意次が辞職しても松平定信政権にすぐには誕生しませんでした。
この時の幕閣は、大老井伊直幸で、老中首座は水野忠友でした。
こうした政治バランスの中で、江戸で打ちこわしが起こります。
この打ちこわしにより、政治バランスが大きく変化します。
打ちこわしが収まった5月24日に御側御用取次の本郷泰行が解任されます。
さらに28日には同じく御側御用取次田沼意致(おきむね)が解任され、29日に御側御用取次横田準松(のりよし)も解任されます。
天明の打ちこわしに関して正しい情報を将軍に伝えなかったというのが解任理由だそうです。
解任された3人の御側御用取次はいずれも田沼意次派の人物でした。ちなみに田沼意致は田沼意次の甥です。
これら田沼派の将軍側近の人々がすべて解任されたこと、とくに横田準松が解任されたことが田沼派にとって大きな痛手だったようです。
そして、6月19日に松平定信が老中にようやく就任しました。
そして、9月1日には、大老の井伊直幸が解任されました。
さらに、天明8年3月28日に水野忠友が老中を解任されました。
4月3日には田沼派であった老中松平康福が、老中を解任され、翌日4日には、定信派の松平信明が老中に就任しました。
こうして、松平定信政権が発足することなります。
杉田玄白は『後見草』に「賤しきたとへに雨降て地かたまるといへるか如く、若今度の騒動なくは、御政事は改るましきなと申人も侍りき」と書いていて、天明の打ちこわしがなければ、政権の変動はなかったという噂があると言っています。