楢林宗建によって成功した種痘は、すぐに各地に伝播していきます。
お題のテキスト『天下大変』では、京都の日野鼎哉の件が書いてあります。
そこで、今日は京都へどのようにして種痘が伝わったか書いていきます。
実は京坂への牛痘苗の導入については、いくつかの説があるようです。
長崎でモーニッケ痘勁の接種成功をみた楢林宗建が急飛脚で京都の日野鼎哉、大坂の緒方洪庵、江戸の戸塚静海に送ったという説。
また、藩主鍋島直正が参勤のため嘉永2年9月22日に佐賀を出発して、途中京都で分苗し、29日に江戸に着いて伊東玄朴、大石良英らに分苗したという説。
そして第三が、9月16日には長崎通詞穎川四郎左衛門から京都の日野鼎哉に送られていて、これを緒方洪庵が分けてもらったという説
テキストには、このうちの第3説が書いてあります。
そこで、このテキストの説に沿って説明します。
9月16日に京都の日野鼎哉の所に長崎の穎川四郎左衛門が送って来た痘痴は越前藩松平家の依頼によるものだそうです。
越前藩の笠原良策は弘化3年に藩に痘苗取り寄せの請願書を出し、これが取り上げられなかったので、嘉永元年12月に再度の請願書を提出しました。
藩主松平慶永春嶽はこれを採用して幕府に請願し、この要請により老中阿部正弘が長崎奉行大屋遠江守に牛痘苗取り寄せを命じていました。
このことが日野鼎哉の耳に門人の桐山元中から入り、嘉永2年6月にモーニッケ痘苗が長崎に到来して成功したとき、日野鼎哉がよく知っていた通詞の穎川のところに、日野鼎哉や桐山元中から、福井藩の笠原良策が藩主を介して幕府に請願し長崎奉行に下命があったことを報らせ、日野もこれを待望していると書いた手紙が着いていたと考えられているようです。
穎川はモーニッケ痘苗の分与を受けて二人の孫に接種し、この痘痴8粒をびんに納めて9月6日に京都の日野に向け発送し、9月16日に日野の手に渡ったのでした。
9月19日、日野鼎哉はただちに孫たちに接種しました。
しかし、3日たっても効果はありませんでした。
そこで最後の一粒を桐山元中の子供源三郎に接種したところ、これが見事に成功しました。
そして、10月16日には、京都新町通三条上ル頭町に日野鼎哉が除痘館を開きました。
この日、鼎哉の弟子たちを中心に総勢22名の医師がかけつけたそうです。