今日は、大坂の緒方洪庵への分苗について書きます。
「天下大変 江戸の災害と復興」では、京都の日野鼎哉から大坂の緒方洪庵に種痘が比較的簡単に分苗されたように書いてありますが、実際は簡単ではなかったようです。
嘉永2年11月1日に京都の除痘館を、緒方洪庵は日野鼎哉の弟日野葛民、さらに小林安石という医師とともに訪れます。
一行は、一人の幼児を伴なっていました。
京都の日野鼎哉が成功した痘苗を接種したもらうためです。
しかし、この日、三人の願いは拒否されました。
それは、京都の除痘館で使用されていた痘苗は、もともと、越前藩の医師笠井良策が、藩主松平慶永の許可・支援を受けて入手しようと取り組んでいたもので、その意向を知った日野鼎哉が協力して長崎の穎川四郎左衛門から入手したものです。
従って、越前藩の笠井良策にとっては、痘苗は越前藩が所有するもので、笠井良策の個人のものではないので安易に分苗できないという考えだったようです。
痘苗の入手を切望していた緒方洪庵たちは大変困惑しました。
そこで、話し合いが行われました。
その結果、痘苗がなくなるのを防ぐためには、多くの痘苗を各地に分苗しておく必要があり、京都だけではなく大坂にも分苗しておくことも大事だということになったようです。
こうして、「越前侯御用」の牛痘苗を京都除痘館から大坂に分苗するということになりました。
嘉永2年11月6日、笠原良策は日野鼎哉とともに牛痘苗を腕に接種した子供を連れて京都を出立して大坂に向いました。
そして、翌11月7日、古手町の種痘所で伝苗が行なわれました。
こうして、大坂にも種痘が分苗され、大坂にも除痘館が設立され、種痘が普及するようになりました。
緒方洪庵は、備中足守藩の出身ですが、嘉永3年正月、備中足守藩主木下利恭の命により、郷里の足守で牛痘種痘を普及させるべく帰郷し、足守にも除痘館を開いています。

