今日は、お玉ヶ池種痘所について書きます。
前回書いたように、安政4年になってくると蘭方医を敵視してきた医学館勢力も衰えてきて、ようやく蘭方医たちも少し自由に動けるようになってきました。
そして、各地の除痘館での種痘の実績も上がってきました。
こうした中で、安政4年8月に下谷練塀小路の大槻俊才の家に、蘭方医10人程が集まって種痘所の開設について協議しました。
その協議に参加した人々は次のような人々です。
佐賀藩医伊藤玄朴、越前丸岡藩医戸塚静海・竹内玄同、
小倉藩医林洞海、箕作阮甫、佐倉藩医三宅艮斎、斉藤源蔵
この人たちが協議した結果、早急に種痘所の建設を幕府にお願いし、そのために種痘所の用地として勘定奉行であった川路聖謨の拝領屋敷を借り受けることにきまりました。
川路聖謨は、阿部正弘に登用された開明派の幕臣で、ペリー来航直後長崎に来航したロシアのプチャーチンと筒井政憲ととも交渉した人物です。
このプチャ―チンとの交渉に同行していたのが箕作阮甫です。
川路聖謨の拝領屋敷を借用することになったのは、箕作阮甫が大きく関わっていると考えらえています。
川路聖謨は当時3か所に拝領屋敷がありましたが、神田お玉ヶ池にある地所は400坪あって一番広い御屋敷だったため、ここを借り受けることになりました。
蘭方医たちの依頼を受けて、川路聖謨は幕府に自分の屋敷内に種痘所の設立したい旨の内意伺書という申請書を提出しました。
川路聖謨から提出された申請書は、安政5年正月、老中堀田正睦により許可されました。
川路聖謨から連絡を許可がおりたという連絡を受けた伊藤玄朴は、ただちに種痘所建設のための寄付金を募集しました。
これに応じた江戸の蘭方医は83名にもなりした。
寄付金は合計で580両余りにもなったそうです。
そして、ついに安政5年5月7日にお玉ヶ池種痘所が開所しました。
右上写真は、お玉が池にある「お玉ヶ池種痘所跡」の碑です。
最後に、発起人の中に名前のある神崎屋源蔵についてちょっと触れておきます。
8月に協議の参加した人のなかに一人だけ蘭方医でない人がいます。それが斎藤源蔵です。
斉藤源蔵は日本橋堀留町で長崎屋と薬種商を営む商人です。
この神崎屋源蔵は、大変義侠心いに富んだ人物で、多くの蘭方医たちを支援していました。
その代表が高野長英です。神崎屋源蔵は高野長英と同じ奥州水沢の出身であったことから、高野長英が江戸に出た時に最初に草鞋を脱いだのが神崎屋源蔵の家でした。
その後も、高野長英をことあるごとに支援をしてきました。
高野長英のほか、大槻俊斎も神崎屋源蔵の世話になっています。
お玉が池種痘所の開設が準備された時には、神崎屋源蔵は2代目となっていましたが、先代の教えを引継いで2代目も蘭方医支援を惜しまず、種痘所建設にも多大な貢献をしました。