十大大火という言葉あるごとく江戸は火災の多い町で、しばしば大火が発生しています。江戸検お題テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の第一章の「大火」では、最も大きな被害があった明暦の大火について説明してあります。
しかし、その他の大火は、表1ページに説明さているだけです。
そこで、これから、江戸の十大大火について、順に説明していきます。
まず、江戸の十大大火とは『江戸学事典』では、次の10個の火事が十大大火だとしてあります。
1、明暦の大火 2、お七火事 3、勅額火事 4、水戸様火事 5、小石川馬場火事
6、目黒行人坂の火事 7、桜田火事 8、丙寅の大火(車町火事、牛町火事)
9、文政の大火(佐久間町火事) 10、地震火事
これらについて、順に説明していきます。
「明暦の大火」については、「天下大変」に十分説明されているので、ここでは、「お七火事」から説明していきますので、今日は、まず「お七火事」について説明します。
「お七火事」と呼ばれている火事は、天和2年12月28日に起きた火事です。
「お七火事」の火元は駒込大円寺です。駒込大円寺は、慶長2年い創立された曹洞宗のお寺です。
午前11時過ぎに、境内の塔頭から出火したと言われていて本堂や庫裏は無事でしたが、隣の同心屋敷に火が移り、一気に本郷まで燃え広がりました。
本郷の加賀藩前田家上屋敷や支藩の富山藩・大聖寺藩の上屋敷を焼失させました。
その火は神田から浅草橋まで広がり、隅田川を飛び越えて本所から深川まで延焼し、富岡八幡宮焼失させた後、海にあたり、ようやく鎮火しました。
この火事で松尾芭蕉の芭蕉庵が焼失しています。
深川の芭蕉庵は、芭蕉の弟子の杉山杉風の生簀(いけす)屋敷座興庵の一隅にありました。
松尾芭蕉自身は、近くの六間堀にまで逃れ、川の中から頭をだして助かりました。
「武江年表」にも「深川の芭蕉庵、急火にかこまれ、翁も湖にひたり烟中をのがれしというは此時の事なるべし」と書いてあります。
これがいわゆる「お七火事」と呼ばれる大火です。
「お七火事」というと八百屋お七が放火した火事と思われることが多いのですが、「お七火事」と八百屋お七が放火した火事とは別の火事ですので、そちらについても書いておきます。
八百屋お七の放火事件が起きたのは天和3年3月2日です。
お七の父は市左衛門といい、本郷の森川宿で大きな八百屋を営んでいました。
お七は自宅近くの軒板の隙間に綿くずを藁に包み火をつけました。
しかし、これはボヤ程度で済んでいます。
従って、八百屋お七が起した放火は大火とはなりませんでした。
しかし、放火犯は重罪です。そのため八百屋お七は火罪となりました。
うら若い美女が火罪になるというので、江戸で大評判となりました。
これが井原西鶴の「好色5人女」に取り上げられたり、歌舞伎にも取り上げられました。
歌舞伎の演目としては河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」が有名です。