今日は、八百屋お七のお墓について書きます。
八百屋お七のお墓は、駒込の円乗寺にあります。
都営地下鉄「白山」駅から徒歩3分の至近距離にあります。
右下写真は、円乗寺の本堂です。
八百屋お七については、有名な話ですが、井原西鶴の『好色五人女』に書かれている内容をはじめ、諸説があります。その中で、最も事実に近いのだろうと言われているのが『天和笑委集(てんなしょういしゅう)』です。
それによると、お七の生家は本郷の森川宿(現在の東大正門向かい側の北側辺り)の八百屋でした。父は市左衛門(『好色五人女』では八兵衛となっている)といい、加賀金沢藩前田家に野菜を納めるほどの大きな八百屋だったようです。
天和の火事で、森川宿に住んでいた八百屋の市左衛門の一家も焼け出されました。そのため、市左衛門は女房や娘のお七と一緒に、駒込の円乗寺(『好色五人女』では吉祥寺となっている)に避難しました。
菩提寺と書いたものもありますが、円乗寺の市原ご住職によると、円乗寺はお七の家の菩提寺ではないとのことであり、円乗寺が駒込に移転する前はお七の家と近い本郷にあったので、お七一家は円乗寺に避難したのではないだろうかということです。
この時にお七は円乗寺の寺小姓、生田庄之助(『好色五人女』では小野川吉三郎、文京区教育委員会の案内板では「佐兵衛」となっている)と恋仲になりました。
やがて自宅が再建され、お七は家に戻りましたが、恋仲になった生田庄之助に会いたい一心で、天和3年3月2日、付け火をします。付け火はすぐに発見され、消し止められました。お七は付け火の道具を持ってさまよっていたため、すぐに捕えられました。
火事はボヤで済みましたが、江戸時代は放火は大罪です。放火の罪で捕らえられたお七は、天和3年3月29日、鈴ヶ森で火あぶりの刑にされました。
この時、お七は16歳でした。江戸時代は、罪に問われるのは15歳以上であり、15歳未満であれば無罪となります。町奉行の甲斐庄(かいしょう)正親は、なんとかお七を助けてやりたいと思い、「14歳だろう」と問います。しかし、お七は正直に16歳ですと答えたため、鈴ヶ森の刑場で火あぶりの刑に処せられてしまったという話が伝えらえています。
ただし、実際に八百屋お七を捕まえたのは、火付改役(ひつけあらためやく:後の火付盗賊改役)の中山勘解由(なかやまかげゆ)です。
このお七の放火は、さまざまな創作物で取り上げられ、大変有名になりました。そのうち最も有名なものが、井原西鶴が書いた小説『好色五人女』です。
また、歌舞伎・浄瑠璃にも数多くの作品があります。代表的なものとして「八百屋お七歌祭文」「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」「松竹梅雪曙」があげられます。さらに、「お七」という落語にもなっています。
その八百屋お七のお墓が、円乗寺参道西側にあります。
昔は屋根がなかったそうですが、現在は屋根が造られています。
(右上写真参照)
お墓は3基あります。中央は、円乗寺の住職が供養のために建てたものです。
中央のお墓が丸く削られていますが、これは、一時期、お七のお墓を削った石粉をもっていると御利益があるという噂がひろまり、墓石が削られてしまったと市原ご住職が話されていました。
右側は、寛政年間に歌舞伎役者の岩井半四郎が建立したお墓です。岩井半四郎がお七を演じた縁で、建立したものです。
墓碑正面に「妙栄禅定尼」とお七の戒名が刻まれています。墓碑右脇に建立時期が刻まれていますが、寛政という文字は読み取れましたが、建立した年は不明でした。
左側のお墓は、まだ新しいもので、近所の有志がお七の270回忌法要のために建てたものです。