江戸の十大大火のお話ですが、今日は勅額火事について書いていきます。
勅額火事は、元禄11年9月6日に起きた火事です。
勅額とは上野の東叡山寛永寺の根本中堂の正面に掲げられた額をいいます。
寛永寺全体の本堂にあたる根本中堂は、将軍綱吉が、柳沢吉保を普請の総奉行に命じ、工事御手伝いを島津綱貴に命じて建立させました。
高さ30.8メートルの根本中堂は、元禄11年7月に完成し、根本中堂の落成式は9月3日に盛大におこなわれました。
なお、根本中堂建設の余った材木で隅田川下流に永代橋が架けられました。
根本中堂は完成しましたが、東山天皇御宸筆の勅額が間にあいませんでした。
勅額は大きな横額で、黒塗りの上に金で「瑠璃殿」の三文字を草書で入れ、縁は雲の模様でした。
その勅額は、現在も寛永寺の根本中堂に掲げられています。(右上写真)
その日の午前10時近く、数寄屋橋門外の南鍋町から火が出た火事が千住まで延焼する大火となりました。
勅額が江戸に到着した日に起きた火事であるため、勅額火事または中堂火事と呼ばれています。
南鍋町で出火した火事は、激しい南風が吹いていたため、数寄屋橋門内から鍛冶橋門内に広がり、吉良上野介義央の屋敷をはじめ多くの大名屋敷を焼失させました。
その中には、呉服橋門内にあった熊本藩細川家の上屋敷も焼失しました。
この時、熊本藩主細川綱利は神田橋外にあった護持院の防火を命じられて出動していました。護持院は無事でしたが、留守中、自分の屋敷は焼失してしまいました。
また、南町奉行所も炎上し、柳沢吉保の常盤橋門内の屋敷も焼失しました。
柳沢吉保はいったん屋敷にもどったが、夜になって寛永寺にまで火事が延焼したと聞いたので、江戸城に出仕しました。
上野にあった林羅山以来の林家の別荘や旧孔子廟・墓地なども焼失しました。
余談ですが、のちに、林家の土地は寛永寺領になり林家には牛込に代地が与えられました。また、湯島天神下の新井白石の屋敷も焼失しました。
寛永寺では、黒門と仁王門が焼け、つぎに本坊が表門と御成門を残してすべて焼け、厳有院(四代将軍家綱)の霊廟も焼けました。
当時の寛永寺の防火担当は秋田藩藩主佐竹義処でした。
佐竹義処のまさに合戦さながらの活躍で、完成したばかりの根本中堂の焼失は免れました。
しかし、佐竹家では、上屋敷はじめ屋敷四か所を焼失しまったそうです。
この時の佐竹義処の活躍ぶりを、寛永寺の防火のため出動していた水戸藩の徳川綱条は褒め称えたと記録が残されています。
この時、焼失を免れた根本中堂は、その後の多くの火災にも焼失することなく幕末まで残されました。 しかし、慶応4年の上野戦争で焼失してしまい、現在は、明治12年に川越喜多院の本地堂が移築され再建されています。(右上写真)
この火事で、浅草の三十三間堂も焼けてしまいました。この後、三十三間堂は、深川に再建されました。
火事は、千住の掃部宿まで延焼し、ようやく鎮火しました。