江戸の十大大火の一つ「小石川馬場火事」について書きます。
小石川馬場火事は、享保2年1月22日に小石川馬場近くから出火した火事です。
名前の由来となった小石川馬場というあまりなじみがない場所なので小石川馬場がどこにあったのか調べました。
小石川馬場は、名前の通り小石川にありました。下の図が万延2年の江戸切絵図「小石川谷中本郷絵図」の一部を拡大したものです。
緑色の部分が小石川馬場と書かれています。
絵図の上部に白山権現というのがあります。これが現在の白山神社ですので、小石川馬場は、現在で言うと、白山下交差点の少し南東側辺りだと思います。
『武江年表』享保2年正月22日の項には、
「小石川馬場脇井出某殿より出火、湯しま・護持院の荘厳、神田橋御門内・鍛冶橋御門まで諸侯の藩邸数宇、通町・八丁堀・築地まで武家・町屋とも夥しく焼亡あり」
と書かれています。白山下から神田・日本橋に延焼し、八丁堀や築地まで燃えていったようです。
この火事で燃えた大きな寺院に護持院があります。
護持院は、元禄元年(1688)、5代将軍徳川綱吉が柳原にあった知足院を移し、隆光を開山として、護持院と改称したことに始まるお寺です。
この大寺院が焼失し、さらに江戸城にも火がおよぶかもしれない状況だったことから、大火の後、護持院は大塚の護国寺に移され、その跡は、広大な火除地とされました。
『武江年表』(ちくま学芸文庫)享保2年正月22日の項には
「災後、護持院を小日向の末に移され、その跡幷雉子橋外武家屋敷跡、畾地(らいち)となれり。」と書いてあります。
そして、この『武江年表』(ちくま学芸文庫)の校訂をした今井金吾の補訂として「畾地とは空地の意にして、世俗これを護持院ヶ原と呼べり。」と書いてあります。
護持院ヶ原は、広大な原っぱで、江戸名所図会によれば、冬から春にかけては、将軍家の猟場として使用されましたが、夏から秋にかけては、江戸の市民に開放され、市民の憩いの場とされていたようです。
この護持院ヶ原で思い出すのが、森鷗外の「護持院原の敵討」です。
新潮文庫にも収録されている短編ですが、印象深いので良く覚えている小説です。
これは天保年間に姫路藩酒井家の大金奉行であった山本三右衛門が藩邸の小使いに殺害され、これを三右衛門の息子・娘が敵討を志し、それに加勢する三右衛門の実弟が九州まで探し歩いた末に、江戸の護持院ヶ原で見事討ち取る話です。
敵討ちの旅の途中で、息子が脱落する場面があり、そうした事態にもめげす江戸に残された娘のりよが、叔父からの「敵見つかる」の知らせを受け、護持院ヶ原で見事敵討ちをする場面が印象的でした。
この小説を森鷗外が実話に基づいて書いたものかどうか調べましたが確証はとれませんでした。
しかし。鷗外は、この小説の最後に
「この敵討のあった時、屋代太郎弘賢(ひろかた)は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。
『又もあらじ 魂祭(たままつ)るてふ 折に逢ひて 父兄の仇討し たぐひは』」
と書いています。
確かに屋代太郎弘賢は実在の人物で和学講談所の会頭まで勤めた人物ですので、鷗外は護持院ヶ原での敵討に関する何らかの資料を持っていて、この小説を書いたものだろうと思っています。
護持院ヶ原は、明治以降は文教地域になりました。
まず、幕末の文久2年蕃書調所が洋学調所と改称して護持院ヶ原に移り、翌3年開成所と改め、明治2年大学南校となりました。さらに6年開成学校、7年東京開成学校と改め、明治10年東京医学校と統合し東京大学が創立されました。
さらに、広大な敷地には、東京大学のほか東京外国語大学、学習院、一橋大学の前身となる東京外国語学校、華族学校、東京商業学校などの学校が次々の開設され、これらの大学の発祥の地になっています。
学士会館の入り口近くに「我が国大学発祥の地」の説明板(右上写真左)と「東京大学発祥の地」の石碑(右上写真右)が設置されています。