「目黒行人坂の火事」は、明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の一つでもある、大きな火事です。
「目黒行人坂の火事」は明和9年2月29日に発生した火事で、火元は目黒行人坂の大円寺です。(右下写真が現在の大円寺です)
午後1時頃に出火した火事は南西からの風にあおられ、江戸市中を焼き尽くし、千住方面まで燃えていきました。
実は目黒行人坂の延焼方向を見て、いつも思うことがあります。
江戸時代は、目黒は江戸からみれば片田舎です。百姓家や寺社は所々にあったと思いますが、家が密集しているわけではなかったと思います。
そして、目黒より江戸に近い白金も、同じように家が密集している地域ではなかったと思います。
そうした人家の少ない田舎でおきた火事がどうして江戸市中に延焼していったか、また、なぜ、江戸市中に延焼する前に防ぐことができずに三大大火の一つに数えられるほどの大火になかったのかと不思議に思います。
さて、そんな疑問は別にして、この大火は、テキスト「天下大変 江戸の災害と復興」に書いてある通り、真秀という坊主による放火によるものです。
この真秀を捕らえたのが鬼平長谷川平蔵宣為の父である火付盗賊改の長谷川宣雄で、真秀は小塚原で火罪に処されました。
目黒行人坂は、目黒駅西口から目黒のお不動様に向かう途中にある坂です。目黒駅から歩いていくと下り坂となります。
この坂の途中に大円寺があります。
行人坂という名前は、大円寺を拠点にする修験道の行者が、この坂道を往来したことによるそうです。
大円寺は、寺伝では、寛永元年(1624)に、出羽湯殿山の修験僧大海法印が大日如来を本尊として道場を開いたのが始まりといわれます。
門を入った正面にある本堂には、江戸城裏鬼門にあたる為徳川家康をモデルにしたという三面大黒天が祀られていて、大黒天を祭る山手七福神の一つとなっていて、こちらの方がなじみがあるかもしれません。
この本堂へ向かう左手に五百羅漢の石像がびっしりと建てられています。この石像は、目目黒行人坂の大火の犠牲者供養のために天明頃につくられたものと「新編武蔵風土記稿」に書いてあるようです。
この大円寺は、八百屋お七とも縁のあるお寺です。
八百屋お七は、天和2年におきた大火の際に避難したお寺にいる寺小姓と恋に落ちて、その寺小姓と会いたいがため放火したといわれています。
その寺小姓(大円寺では吉三と書かれている)の関連史跡がいくつか大円寺にあります。
その一つが「行人坂敷石造道供養碑」です。
目黒区教育委員会の説明板には次のように書いてあります。
この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です
大円寺境内にあるお寺が立てた説明板には、西運というお坊さんが寺小姓吉三が出家後に名乗った名前だと書いてあります。(右下写真)
江戸時代本郷の八百屋の娘お七は天和二年(1682)の火事の際、自宅を焼かれしばらくの間、駒込の円林寺に仮住いしており、その時に寺小姓 の吉三に恋したという。お七は十六才、吉三が十八才でした。
恋いこがれたお七は吉三会いたい一心で翌年自分の家に放火 したために、江戸市中を引廻しの上、鈴ヶ森の処刑場で火刑 に処せられた。
一方の主人公「寺小姓吉三」はお七の処刑後、僧となり名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大円寺の下の明王院(現雅叙園)に入ってお七の菩提を弔うため、往復十里(約四十キロメートル)の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて鉦を叩き念仏を唱え遠隔夜日参り一万日の行を二十七年と五ヶ月かけて成し遂げ、お七が夢枕にたって成仏したことを告げられたことから「お七地蔵尊」を造った。また西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基金に行人坂敷石の道 を造り、目黒川 に石の太鼓橋 を架け社会事業の数々を行なった。
この説明板が設置されているのは本堂西側の阿弥陀堂の前です。(右上写真)
その阿弥陀堂には、西運が作ったという「お七地蔵」が祀られています。
このお七地蔵を拝観するには許可が必要です。

