江戸の十大大火、今日は文化3年3月4日に起きた大火です。
この大火は、この年の干支が丙寅(へいいん:ひのえとら)であったことから丙寅の大火とよばれています。また、芝車町から出火したことから車町火事とも言います。また芝車町は牛町とも呼ばれたことから牛町火事ともいいます。
この火事は明暦の大火・明和の大火とともに江戸三大火の一つに数えられています。
文化3年3月4日四ツ刻過ぎ、芝車町の材木屋付近から出火しました。
その日は、南西の風が強く吹いていて、火はたちまち札ノ辻へ延焼し、芝、京橋、日本橋を焼いて、神田川を越えた火事は、浅草門外から浅草辺りまで延焼していきました。
そして、翌日の5日は大雨となり、さしもの大火も昼四つ時(午前10時ころ)には鎮火しました。
類焼した長さは、「武江年表」によれば、長さ2里半といいいますから10キロほどの街並みが燃えたことになります。
焼死溺死した人が1200人と「武江年表」と書いてあります。
この火事に、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフが遭遇しています。
ヘンドリック・ドゥーフは、蘭和辞典の「ドゥーフハルマ」(長崎ハルマとも呼ばれる)の著者です。
さて、火元となった「車町」(通称牛町)について説明しておきます。
寛永11年の増上寺の安国殿を建立するなどの際に、資材の輸送のため、江戸にはなかった牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋を江戸に呼び、材木や石類の運搬に当たらせました。
工事終了後、褒美として、高輪での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えました。
この人たちが居住した場所が「車町」です。
歌川広重の名所江戸百景の中の「高輪うしまち」(右上写真)は、車町を描いたもので、手前に大きな車輪が描かれていて、いかにも頑丈そうな車だということがわかりますし、犬も描かれてるのが広重らしいと思います。
遠景は、高輪と品川の海ですが、よく見るとお台場が描かれています。