江戸の十大大、今日は「文政の大火」について書いていきます。
文政の大火は、文政12年3月21日 神田佐久間町から出火した火事です。
そのため「佐久間町火事」とも呼ばれます。
佐久間町は、現在の秋葉原駅の東側の神田川の北側一帯で、現在も、神田佐久間町1丁目~4丁目の名前が残されています。
武江年表には、次のように書かれています。
三月二十一日(陽歴四月二四日)、北風烈しく、已の刻過、神田佐久間町弐丁目河岸の材木小屋より火出て、神田川を飛て東神田武家・町屋一円に焼、夫より東は両国橋際・浜町辺武家方より永代橋手前迄、西は須田町通り西側残り、東側より今川橋向本銀町・本町河岸・御堀端通・数奇屋橋外迄、南は新橋・塩留迄を限りとし、其間の町々は本町・石町・大伝馬町・小伝馬町・馬喰町・横山町辺一円・堺町・葺屋町両座芝居・牢屋敷辺・小網町・八丁堀・霊巌島・鉄炮洲・築地武家方・西門跡より先、海手に至り佃島迄、木挽町芝居・京橋・新橋辺町屋類焼に及び、翌二十二日朝鎮火す。武家方類焼夥しく、南北凡一里余、東西二十余町。焼死・溺死の輩千九百余人と聞り。御救の小屋九ヶ所を建て、類焼の貧民を救せらる
これによると、出火した日は、北風が強くて、佐久間町2丁目で発生した火事は、神田川を飛び越えて、東神田から京橋・新橋あたりまで延焼し、東側は、 両国橋の西際から八丁堀から築地を焼失させ、佃島まで延焼しています。
21日の午前10時ごろに発生した火事は、翌日で燃え続け、朝にようやく鎮火したようです。
この文政の大火は、第9回の江戸検1級の第100問目で記述問題として出題されています。
第100問 文政12年(1829)年3月に中村座や市村座を焼いた「文政の大火」は、その年の干支から「己丑の大火」とも呼ばれました。これに対し、その5年後の天保5年(1834)2月に中村座や市村座を焼いた火事は、「( )火事」と呼ばれます。( )に入る干支を漢字2字で書いてください。
この正解は「甲午」なのですが、甲午火事も大きな火事でした。
江戸検のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」の「江戸時代のおもな大火」の中にも「甲午火事」として書かれています。
この火事は、「武江年表」には、
二月七日(陽暦三月十六日)、北風烈しく、昼八時、神田佐久間町二丁目琴師の家より出火して、即時に神田川を越て東神田お玉が池の辺へ移り、一円に焼広がり、東は両国矢の倉(旧名なり)辺にいたる。西は神田お玉が池より今川橋向・本銀町・石町・本町・室町迄東側一円、伝馬町牢屋敷・油町・塩町・堺町・葺屋町両座の芝居・住吉町・難波町・大坂町・小網町辺。この間に挟りたる町は、少しも残る所なし。日本橋より先は、通り町筋東側・八丁堀・霊巌島の辺・新川・新堀・永代橋際迄、鉄畑洲・築地門跡より海手まで、木挽町芝居・佃島等悉く焼亡す。方域、去ル丑年三月の火事に大やうたがはず。
このように、甲午火事も、文政の大火と同じように神田佐久間町から出火しています。
こうしたことから、「またも火元は佐久間町」とも言われ、佐久間町でなく「悪魔町」と呼ばれることもあったそうです。
こうした汚名をそそぐため、佐久間町では防火に力をいれ、何がなんでも火はださないと消防訓練に努め、関東大震災のときには、周辺地区大部分が、地震後に発生した火事により焼失するなかで、佐久間町町民は町内からは火を出さず、町を守り抜いたそうです。
それを記念した「防火守護地」碑が秋葉原駅東にある和泉小学校校庭の前に建てられています。
防火守護地の碑文には次のように刻まれています。
この付近一帯は大正十二年九月一日関東大震災のときに町の人が一致協力して努めたので出火をまぬがれました その町名は次の通りであります
佐久間町二丁目三丁目四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部 御徒町一丁目の一部
昭和四三年四月二四日佐久間小学校 地元有志 秋葉原東部連合町