江戸検が明後日に迫ってきました。
江戸検を受検される皆さん頑張ってください。
さて、江戸の十大大火ですが、最後は「地震火事」です。
地震火事は、安政江戸地震に関連して発生した火事です。
安政江戸地震は安政2年10月2日に江戸を襲った地震です。
この地震直後に起きた火災が、江戸の十大大火の一つに数えられています。
地震が起きたのは、午後10時ごろでしたが、火災が江戸市中各所から起きました。
江戸検お題のテキスト「天下大変 江戸の災害と復興」では、この時の死者は3800人と書かれています。これは当然地震による死者も含めたものだと思います。
この中で、安政江戸地震で特に被害が大きかったのが、吉原です。
「武江年表」には、
吉原町の焼あるは他所より早し、京町2丁目・江戸町1丁目より火起こり、其余、潰れたる家々より次第に焼出て、一廓残らず焼亡す。
と書かれています。
吉原は、遊女の逃亡を防ぐため、遊廓の周囲は、いわゆる「おはぐろどぶ」と呼ばれた堀によって外界から遮断されていて、出口は大門だけでした。
『実録大江戸壊滅の日』(荒川秀俊著 教育社刊)によると、この日、遊廓ではまだ宵の口の午後9時ごろ、入口に近い江戸町一丁目で火事があり、その火事が、まだ鎮火しない時間帯に安政江戸地震が起こったと書いてありました。
そのため大門付近の火災によって遊廓内の人々は外部への逃げ路が亡くなりました。
また、非常時のために設置されているおはぐろどぶの跳ね橋を下ろすこともできなかったようです。こうしたことから、大勢の焼死者がでることとなりました。
『安政江戸地震』(野口武彦著 ちくま学芸文庫)に載っている江戸町方の死者数は第1回では江戸全体で3950人うち685人、第2回調査では、江戸全体で4293人うち630人となっています。
この資料によれば深川地区の死者も多いのですが、吉原は3町四方という狭い範囲となりますので、安政江戸地震の際の実質的な最大の被害地は吉原ということになります。
吉原の大見世の三浦屋では、かせぎのよい遊女を選んで穴蔵へ入れて助けようとしましたが、火が入って全員焼け死んだという悲劇も起きました。
これらの遊女たちの死骸は、三ノ輪の浄閑寺境内の穴の中に投げこまれたといわれています。右写真は浄閑寺の山門です。
浄閑寺は、東京メトロ「三ノ輪」駅から徒歩3分程度の至近距離にあります。
浄閑寺には、遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が本堂裏に建立されています。(右下写真)
浄閑寺の説明によれば、現在の塔は、安政江戸地震で亡くなった500余人を含めた寛政5年以来の遊女の供養塚を昭和4年8月に改修して形を改め、名前も「新吉原総霊塔」としたものだそうです。
新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は2万5千に及ぶと浄閑寺のHPに説明されています。
また、浄閑寺には安政江戸地震と、それにつづいて起こった火災のためなくなった遊女の過去帳が現在も残っているそうです。

