雑司ヶ谷霊園に眠る有名人の2回目は岩瀬忠震です。
岩瀬忠震のお墓は、永井荷風の斜め向かい側にあります。
雑司ヶ谷霊園の区画で言えば1種1号8側です。
岩瀬忠震の墓所入口には右写真のような「岩瀬肥後守墓道」と刻まれた案内石柱が建てられていますので、これが目印になります。
岩瀬忠震は、幕末好きの人ぐらいしか知らないだろうと思っていましたが、先日の雑司ヶ谷霊園散歩の際には、永井荷風より人気があり、予想外の人気ぶりに驚きました。
岩瀬忠震の墓所には、三つの墓碑があります。
岩瀬忠震の墓と養父岩瀬忠正の墓、そして岩瀬家の墓です。
墓所正面にある「従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」と刻まれている墓碑が岩瀬忠震のお墓です。
この墓碑銘のうちの「爽恢」は、岩瀬忠震の諡(おくりな)です。
これは松岡氏によれば、永井尚志が付けたものだろうとのことです。
「府君」とは一般名詞のようで、辞書によれば、「1、亡祖父・亡父を敬っていう語。2、 尊者・長者を敬っていう語」だそうです。
岩瀬忠震については、中公新書の「岩瀬忠震」(松岡英夫著)が名著だと思います。
「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を参考に、岩瀬忠震の生涯について書いていきます。
岩瀬忠震は、文政元年(1810)、旗本設楽貞丈の3男として生まれました。
母は林述斎(林大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいます。
天保11年(1840)23歳の時、岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継ぎました。
天保14年(1843)昌平校大試験に乙科及第、嘉永2年(1849)部屋住のまま両番士,甲府徽典館学頭,昌平校教授を歴任し、嘉永6年、徒頭となり、翌年の安政元年1月22日、永井尚志,大久保忠寛らと前後して目付に登用されました。
ペリーの再来航が1月16日ですので、ペリー再来航後、阿部正弘が急遽若手秀才を登用した中の一人として登用されました。
目付に登用され、海防掛、軍制改正用掛、蕃書翻訳用掛、外国貿易取調掛を兼務しました。
安政2年(1855)には、日露和親条約修正のためのロシアのプャーチンとの交渉に加わりました。
安政3年(1856)8月にアメリカからハリスが来日し、安政4年12月より下田奉行井上清直とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の草案の審議に当たりました。
草案合意後、条約勅許を得るために安政5年老中堀田正睦に従って上洛しましたが、朝廷から条約調印の承認を得られず江戸に帰りました。
4月に江戸帰着早々、井伊直弼が大老に就任しました。
井伊大老からの指示は、勅許を得るまで引き延ばしを交渉しろというものでしたが、即時調印すべきとの考えから「ハリスが引き伸ばし交渉に応じなかった場合には、調印してもよいか」と質した(実際に質したのは井上清直のようです)うえで、「その場合には調印しても致し方ない」との言質をとったうえで、ハリスとの交渉に臨みました。
ハリスは当然引き伸ばしに応じなかったため、安政4年6月19日、井上清直と共に全権として条約に調印しました。
そして、その年7月、新設の外国奉行に就任、引き続き日蘭、日露、日英、日仏の各修好通商条約の交渉にあたり調印しました。まさに対外交渉の第一線で活躍したのでした。
しかし、岩瀬忠震は、将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立をめざす一橋派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼に忌まれ、五か国条約調印直後の9月5日、井伊直弼により作事奉行に左遷され、翌安政6年8月作事奉行罷免・永蟄居に処せられ,江戸向島に隠棲し、文久元年7月16日なくなりました。44歳でした。
岩瀬忠震の死については、川崎柴山、栗本鋤雲は憂憤による死であると書いています。
東武スカイツリーライン東向島駅から徒歩10分の所に白鬚神社があります。東向島駅からですと有名な向島百花園の前を通っていきます。向島百花園は紅葉の盛りでした。(右上写真)
白髭神社は社伝によれば平安時代前期に創建された古い神社です。
隅田川七福神の一つ寿老人が祀られていることで有名です。
その境内に「岩瀬鴎所君之墓碑」があります。(右下写真)
岩瀬忠震の用人であった白野夏雲が建立したもので、撰文は永井尚志が書いています。
墓碑と書かれていますが、撰文の後半には次のように書かれていますし、岩瀬忠震は小石川の蓮花寺に埋葬され、その後雑司ヶ谷霊園に改葬されていますので、墓碑ではなく顕彰碑といってよいと思います。
「文久元年七月、天、其の寿と奪い、病を以て卒す。享年四十有四。諡を爽 と曰い、白山蓮花寺先 の次に葬る。君、元設楽(しだら)氏。岩瀬忠正養いて嗣子と為し、其の長女を配す。後、津田氏を娶す。三男皆早卒。六女あり、其の三は人に適(とつ)ぐ」
この顕彰碑は、白鬚神社の宮司さんのお話では、「来歴がはっきりしないが、白鬚神社に建てられたものではなく、近くに岩瀬忠震が隠棲した岐雲園があるので、岐雲園もしくはその近くに建立され、のちに白鬚神社に移転されたのではないだろうかと考えています」ということでした。
「岩瀬忠震」(松岡英夫著)を読んで知ったことがいろいろありました。
岩瀬忠震の業績として、日米修好通商条約の締結、そして一橋慶喜の擁立を図ったことはよく知られていることですが、その他、次のようなことがあるそうです。
①品川台場の築造に参加
②軍艦製造
③講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の設立
④香港渡航を企画
⑤日米通商条約の批准をワシントンで行うと提案したこと。
こうしてみてみると、幕末に徳川幕府が行った政策のほとんどに参画していることがわかります。
その中で、特に驚くことは、自ら海外に渡航しようとしていることです。
ワシントンでの日米通商条約の批准には、正使新見正興、副使村垣範正、目付小栗忠順が派遣されていますが、岩瀬忠震自身が渡米するつもりだったようです。
しかし、左遷・免職となったため、派遣するメンバーが変わり、上記メンバーとなったそうです。
岩瀬忠震が活躍したのは、目付に登用された安政元年から、作事奉行に左遷される安政6年までの丸5年間だけです。
しかし、その業績は目を見張るものがあります。
まさに岩瀬忠震は「幕末を駆け抜けた秀逸」といってよいのではないでしょうか。

