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小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)

小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_10512334.jpg 雑司ケ谷霊園に眠る有名人の第5回は、小栗上野介一族のお話です。

 「小栗家累代之墓」には、小栗上野介忠順のほか、小栗上野介の夫人と遺児も眠っています。

今日は、その人々について書いていきます。

小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_10512790.jpg「小栗家累代之墓」の墓碑の裏面には、小栗上野介のほか、その道子夫人、遺児国子、その夫貞夫の名前が刻まれています。(右写真をご覧ください)

この人たちは、小栗上野介の斬首に伴い波乱万丈の生涯をおくりますが、それについて「小栗忠順のすべて」(村上泰賢編 新人物往来社刊)や東禅寺のホームページを参考に書いていきます。

小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_10514746.jpg 小栗上野介は、慶応4年閏45日に新政府軍に捕えられ、取り調べもなく、翌日の4月6日権田村の川原で斬首されました。

 小栗上野介は、道子夫人と別れる際に、万が一の場合には会津に逃れるように指示し、道子夫人を村役人百姓代の中島三左衛門に託しました。

中島三左衛門は村人たち30人余りで護衛隊を作り、会津をめざしました。

 この時に、道子夫人のほかに、上野介の母くに、養子又一の許婚鉞子(よきこ)も一緒に会津をめざしました。

会津までの脱出のコースは、東禅寺のホームページによれば、

権田―六合村―地蔵峠―秋山郷―十日町―六日町―新潟―水原―津川―会津若松 となっています。

 高崎市の東善寺には、会津までの逃避行の道順を書いた地図が掲示されていました。(下写真)

小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_10514364.jpg
現在の群馬県と新潟県の県境に横たわる山を越える険しく狭い山道を脱出していきました。

小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_10513431.jpg妊娠8か月で身重な道子夫人は、山駕籠に乗ったり、あるいは駕籠に乗せることができず草刈籠の中にいれて村人がそれを背負って山道を進んだこともあったそうです。
(右写真は、東善寺に展示されている道子夫人も乗ったという山駕籠です)

 こうした険しい山道を伝わってようやく新潟にたどりつきました。

 新潟は、小栗上野介の父忠高が新潟奉行を勤めていて、ここで亡くなった土地でした。

 小栗忠高の墓は、市内の法音寺にありました。そこで、小栗上野介の母の国子は亡くなった夫の墓参りをすることができました。

 しかし、新潟も安住の地ではないため、2泊しただけで、会津に向かいました。

会津に入った道子夫人たちは、会津藩若年寄横山主税常忠の家族に迎えられ、困難を極めた脱出行も無事終わりました。

横山主税は、閏4月29日に道子夫人たちが到着したときは、白河城に出撃していましたが、5月1日に戦死し、会津城下にも新政府軍が迫ってきたため道子夫人は横山家を出て、南原の野戦病院に移動し、無事女の子を出産しました。
 道子夫人は生まれた女児を国子と名づけました。

 道子夫人と国子は、会津戦争が終わった後、翌年の明治2年春会津をたって東京へ出て、さらに静岡まで移動しました。

道子夫人らを静岡まで送り届けて権田村へ戻った中島三左衛門は、権田村を管理していた高崎藩に帰村届を出しました。

その際に、問われるままに、道子夫人の脱出の顛末、静岡で小栗家を再興したことなどを報告しました。

これを聞いた高崎藩の役人は非常に感嘆し、「汝等は小栗上野介の家臣でなく、領地の村役人に過ぎないのに、身命を賭して小栗上野介のために尽くした赤誠は、代々禄を食んだ家臣でも遠く及ばない」と激賞し、苗字帯刀を許し、姓を中島から「誉田(ごんだ)」と改めるよう申し渡されたそうです。

 道子夫人らはまもなく東京へ出て、三井家大番頭の三野村利左衛門の保護を受け、三野村が明治10年55歳で死んだ後も三野村家の保護は継続しました。

 三野村利左衛門は、若い頃、小栗家の中間として働いていたことがあり、両替屋を開いた後も小栗上野介からを助けたもらったことがあり旧恩を感じていました。

小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_10515006.jpg 小栗上野介と三野村利左衛門の生涯を描いた小説が集英社文庫の『日本大変 小説小栗上野介と三野村利左衛門」(高橋義夫著)です。

 三野村利左衛門は、死ぬまで昔使えた小栗上野介への恩を忘れなかったそうですが、この小説の後半には、小栗上野介の遺族を保護する三野村利左衛門の忠義がよく描かれていて、一読の価値があると思います。

 明治19年に道子夫人が亡くなると、遺児国子は大隈重信・綾子夫妻が保護して育てられました。

 大隈重信夫人綾子は小栗上野介の従妹で、幼い頃に小栗家で育てられていたことがあります。
小栗上野介夫人道子と遺児国子(雑司ヶ谷霊園に眠る有名人⑤)_c0187004_07554139.jpg 
その頃の恩返しだったのでしょう。
右写真は、早稲田大学キャンパス内の大隈庭園にある大隈綾子の銅像です。

 遺児国子は、大隈重信夫妻の配慮もあり、政治家・ジャーナリスト・小説家として活躍した矢野龍溪の実弟貞夫と結ばれることとなります。

 二人の間には又一が生まれ、小栗家は現在まで存続しています。

 小栗国子は、昭和4年に60歳でなくなりました。

 その一生について、高橋義夫は『日本大変』で次のように書いています。

 

 旧幕の名勘定奉行小栗上野介の悲劇の子として生まれ、数奇の運命をたどった国子の身の上は、同時代の心ある人々が案じ、いつも誰かしらが折に触れて救助の手をさしのべて来たのである。非命に斃れた父の忠順と、苦労を重ねた母道子夫人の分まで、人に愛された一生だった。

 その小栗国子、会津まで決死の脱出行をやり遂げ国子を生んだ道子夫人、さらに国子と結婚し小栗家の墓を建立した小栗貞夫は、現在は、静かに雑司ケ谷霊園に静かに眠っています。



by wheatbaku | 2016-11-24 10:36

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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