東海寺に眠る人々の2回目は、沢庵です。
江戸時代には、本坊の裏側にありましたが、現在は、東海道線と山手線に挟まれた三角形の形をしています。
山手通りからの入口には案内板があります。(右写真)
入口には、「史跡沢庵墓」と刻まれた石柱が建っています。(右2番目写真)
石柱脇の石段を登っていくと左手に「開山沢庵和尚の碑」(右三番目写真)がありますが、多くの人が気がつくことはないかもしれません。
その周辺は囲いがされています。(右四番目写真)
そのため、沢庵の墓碑に近づくことはできないので、離れたところから見ます。
離れたところからみても、大変質素なお墓です。(右五番目写真)
「江戸から気ままに江戸散歩」でご案内した時も参加者の皆さんが異口同音に「質素だ」といっていました。
沢庵和尚は言うまでもありませんが、将軍家光も帰依した天下の高僧です。その高僧のお墓がこんな質素なので驚いたと思います。
こういう質素なお墓になっているには理由があるようです。
沢庵は、亡くなったら遺骸は後ろの山に埋めて土をかけるだけにしろと言い残したそうです。つまり、お墓はつくるなということだと思います。
それだけでなく、お経もあげるな、位牌もつくるなとも言い残したそうです。
従って、これほど質素なお墓でも沢庵からすれば沢庵の意思には反していることになります。
沢庵の生涯を『沢庵』(水上勉著、中公文庫)や『沢庵和尚年賦』(荻須純道著 思文閣出版刊)を参考に書いていきます。
水上勉は作家ですが、この『沢庵』は小説ではなく沢庵の伝記です。
沢庵は、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、父は出石城主山名宗詮(そうせん)の家臣の秋庭綱典といいました。
10歳で出石の浄土宗唱念寺に入り、その後、東福寺派宗鏡(すきょう)寺塔頭(たっちゅう)勝福寺の希先(きせん)に学び、さらに、希先死亡後、京都から招かれた大徳寺派の董甫宗仲(くんぽそうちゅう)、の下で修業しました。
董甫宗仲が京都に帰るのに随って大徳寺に入り、大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭(そうほう)と改名しました。
その後、堺で文西洞仁の門下に入りましたが文西が亡くなった後は、堺で一凍紹滴に師事し、後に一凍紹滴とともに南宗(なんしゅう)寺に移り、32歳になった慶長9年(1604)、一凍紹滴から沢庵という法号を授かりました。
そして、慶長12年(1607)37歳で大徳寺153世の住持となりました。
しかし、大徳寺住持は3日間で辞任してしまったそうです。
その後、戦禍に焼けた南宗寺や荒廃した宗鏡寺を再興しました。
寛永年間になると、沢庵の身に大きな苦難が襲いかかりました。紫衣事件です。
紫衣事件については次回、詳しく書きますが、紫衣事件で幕府の対応に鋭く抗議したため、寛永6年57歳の時にに紫衣事件で沢庵は出羽国上山に流がされることになりました。
出羽国上山に流された沢庵は、配流先で上山藩主の土岐頼行から厚い保護を受けたということは前回の土岐頼行の中で書いた通りです。
寛永9年、沢庵60歳の年に、大御所徳川秀忠が亡くなったことにと、天海、柳生但馬守宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許され、沢庵も江戸に戻り、神田広徳寺に入りました。その後、駒込の堀丹後守直寄の屋敷に住み、寛永11年(1634)に大徳寺に戻りました。
その年、徳川家光が上洛した際に、天海、堀丹後守直寄、柳生但馬守宗矩の強い勧めにより、沢庵は二条城で家光に拝謁しました。
この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになりました。
寛永12年には、幕命により江戸に下ることになりました。
江戸城に登り、家光の問に対する応対が全て家光の意に叶ったものであり、ますます帰依をうけることになりました。
この後、京都や但馬に帰ることもありましたが、寛永14年に、幕命により江戸に下りました。
この時、家光は、沢庵のために新しい館を造っていましたが、沢庵はそこに入らず麻布の柳生但馬守の屋敷に住んでいました。
沢庵はその庵を「検束庵」と名付けたそうです。まさに「検束された」という意味を込めているそうです。
寛永16年(1639)、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなりました。
翌年には、東海寺境内に、老中堀田正盛により塔頭臨川院(後に玄性院と改称する。現在の東海寺の名称を継いでいる)、寛永18年に酒井忠勝が長松院、寛永20年に細川光尚が妙解院、正保元年には小出吉親が雲龍院を創建するなど、続々と塔頭が創建されました。
そして、正保2年(1646)73歳でなくなりました。
亡くなる際の遺誡は次のようなものでした。
全身を後山にうずめて、ただ土を掩い去れ、経を誦することなかれ。
斎を設くることなかれ。道俗の弔 を受くることなかれ。
衆僧著衣喫飯なお平日の如くせよ。
且つ塔を立てる像を安じ牌を立つることなかれ。
真を掛くることなかれ。
諡号を求ることなかれ。
この遺誡は、私には、名誉を捨てるたけでなく、沢庵という名僧の存在さえ無視しろといっているように思えます。驚くべき遺誡です。




