今日は、沢庵に関連する事項として紫衣事件と沢庵漬けについて書いてみます。
紫衣事件については高校の日本史の教科書にも出てくる有名な事項です。
しかし、事件の全貌についてわかりやすく書いたものが私がみた限りでは少ないように思います。
そうした中で、『国史大辞典』の説明がわかりやすいように思いますので、『国史大辞典』の説明をもとに書いていこうと思います。
紫衣は紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、もともと宗派を問わず高徳の僧が朝廷から賜ったものです。
寛永4年(1627)7月、幕府は禅僧で元和元年(1615)以後に紫衣勅許を受けた者に対し、これを取り消すなど、五ヵ条からなる禁令を出しました。
これより以前、慶長18年(1613)には特に大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・粟生光明寺・金戒寺の住持職について『勅許紫衣法度』を出し、勅許以前に幕府に申し出ることを定めました。
ついで元和元年の『禁中井公家諸法度』と『諸宗本山本寺諸法度』が出され、朝廷の勅許は慎重に行わるべきことを規定しました。
しかし実際にはこの後も幕府に告知することなく勅許される者が続いたので、寛永4年7月、土井利勝・板倉重宗・金地院崇伝が会して五ヵ条の制禁を出しました。
これは、元和元年以降の五山十刹に出世入院した者の綸旨を無効とし、浄土宗の上人号も取り消しということが主な内容になります。
この禁令により大きな影響を蒙ったのは、大徳寺と妙心寺でした。
大徳寺では、硬軟両派に分れ争い、硬派は北派と呼ばれ、軟派が南派と呼ばれました。
両寺でははじめ強硬論つまり大徳寺では北派が優勢で、翌年の寛永5年春、大徳寺で北派に属する沢庵宗彭・玉室宗珀・江月宗玩は、連名で抗議書を所司代に提出しました。
この起草は沢庵が行ない、辞句の激しい抗議文でした。
この抗議書を読んだ幕府も妥協策を考え、既成の事実をある程度まで認める代りに、詫状を提出させることとしました。
妙心寺では、幕府の命令に従い、七名が連署で詫状を出しました。
大徳寺も南派=軟派が屈服して連署の詫状を提出して大勢は幕府の意向に従いました。
しかし沢庵たちは屈服せずなお抗議したので、幕府は沢庵らを江戸に呼んで詰問することにしました。沢庵らは寛永6年江戸に下りました。
幕府では崇伝が厳罰を、天海が軽い処罰を主張しましたが、大徳寺と妙心寺の4名が配流となりました。
妙心寺束源慧等は陸奥津軽、同単伝は出羽由利、大徳寺沢庵は出羽上山土岐氏に、同王室は陸奥棚倉内藤氏に預け置かれ、江月は許されました。
これが紫衣事件です。
紫衣事件はこの4名の流罪だけで終わったわけではありません。
紫衣事件により、朝廷では、後水尾天皇が6月に譲位の内意を近臣に伝え、11月に明正天皇に譲位してしまい、江戸時代初期の朝幕対立の最大事件とされています。
『国史大辞典』には、
紫衣事件は、朝廷の寺社に関する権能を収奪しようとはかった幕府の積極的な動きの一環として把えられるとともに、五山の外に独立していた大徳・妙心両寺を圧迫しようとした崇伝の策謀によるものと推測されている
と書かれています。
上山に流された沢庵は3年後赦された後、徳川家光の帰依を得て、身近に仕え、ついには東海寺の開山となるほどでした。
この間の沢庵の努力の結果、紫衣勅許についての制限は、寛永18年に緩和されて、京都所司代の承認を経て勅許することが認められました。
これは、沢庵の功績であり、家光に擦り寄ったと批判していた大徳寺や妙心寺の僧たちも、沢庵の功績を高く評価したそうです。
次いで「沢庵漬け」について書きます。
沢庵和尚がこの漬物を考案したから「沢庵漬け」の名がついた。
また、東海寺にある沢庵のお墓は、丸い石を置いただけで、大根を押すために置すための丸い石とよく似ているので、沢庵漬とよぶようになったと『国史大辞典』に書いてあります。
水上勉の『沢庵』でも、東海寺を訪ねた家光が珍しいものを所望した際に、沢庵が貯え漬けの香の物を出したところ、「これは貯え漬けでなく、沢庵漬けだ」と言ったことが発祥だと書いています。
しかし、『たべもの語源辞典』では、 「大根の糠漬けは、沢庵が生まれる以前からあったもので、沢庵が発明したという説は間違いである。」 と書いてあります。
さらに、京都の辛漬(からづけ)や九州の百本漬は「沢庵(じゃくあん)」ともよばれ、それが、「沢庵(じゃくあん)」という文字のよみ方から「たくあん」となったと書いてあります。

