今日は、大山墓地に眠る渋川春海について書きます。
大山墓地内の沢庵のお墓からあまり離れていない線路に近いところに渋川春海のお墓があります。
(右写真の左から2番目の墓碑が渋川春海の墓ですが、後ろ側に東海道新幹線の線路が写っています)
渋川春海は、江戸時代における天文学上の大人物ですが、意外と質素なお墓です。 戒名は「大虚院透雲紹徹居士」と彫られています。
渋川春海は、日本人の手により作られた最初の暦「貞享暦」を作りました。
また、「八十八夜」や「二百十夜」を定めたことも有名です。
しかし、渋川春海の伝記を探しましたが、渋川春海の伝記はありませんでした。
その中で新潮選書『江戸の天才数学者』(鳴海風著)の中で、吉田光由や関孝和らとともに書いてあります。
また、2011年の本屋大賞を受賞した「天地明察」は、渋川春海が主人公の小説です。
この小説は、映画化され、岡田准一が渋川春海を演じていました。
この「天地明察」はもちろん時代小説ですが、渋川春海の生涯もわかります。
伝記がない中で、作者の冲方丁が渋川春海の生涯をよく書いたと感心しました。
『江戸の天才数学者』や『天地明察』も参考にして渋川春海の生涯について書いてみます。
渋川春海は、もともとは、囲碁棋士で、安井算哲と名のっていました。
そうした環境下ですが、渋川春海は暦に興味を持ちました。
当時の日本では、中国製の暦「宣明暦」を使用していました。
宣明暦は、800年以上も使われたため間違いが生じていました。
何が違っているかというと、日食とか月食が起こる日が違っていました。
当時は、旧暦でしたので、日食は新月の時つまり一日に起き、月食か満月つまり15日に起きるはずでしたが、その日食や月食がずれて起きたわけです。
これは暦学者や朝廷にとって大問題でした。
渋川春海は、中国の経度と日本の経度が違っているため、中国では正しい授時暦が日本では間違えを起すことに気がついたのです。
さらに『天地明察』には、渋川春海は、太陽・地球・月の軌道が正円ではなく楕円形であることにも気がついたと書いてあります。
こうした研究を積み重ねて、渋川春海は、中国の元の暦であった授時暦を基にした上で、さらに改訂し日本にあった暦をつくりました。
渋川春海が作った暦への改暦が宣下されたのが貞享元年(1684)10月29日で、実際に使用され始めたのが貞享2年であるため、その時の年号をとって貞享暦と呼ばれました。
この貞享改暦により、平安時代の貞観4年(862)から800年以上にわたって使用されてきた宣明暦は廃止となりました。
この改暦の功により、幕府は渋川春海を天文方に任命しました。
その後、天文方は渋川春海の子孫が継いでいきました。
こうした渋川家を継いで、いわゆる旧暦と呼ばれる太陰太陽暦の最高傑作と呼ばれる天保暦を作ったのが、渋川景佑(かげすけ)です。
この渋川景佑は高橋至時の次男として生まれ、渋川家に養子に入り渋川家を継いだのでした。高橋至時は、有名な伊能忠敬の先生です。
渋川春海は、もとは囲碁士で、安井算哲といっていました。
囲碁の家元には四家(囲碁家元:本因坊家、井上家、安井家、林家の四家)あり、安井家はその一つでした。
渋川春海は、初代安井算哲の長男として生まれましたが、彼が生まれる前に父は養子をもらっていて、その名を算知といいました。安井算知は実力抜群でした。
そのため、安井算哲が義兄算知をたてるときには保井を名のり、囲碁の仕事でない場合つまり暦に関係する仕事の場合には、渋川という姓を使用しました。
安井から保井には延宝5年(1677)に改めて、さらに、元禄15年(1702)64歳の時に渋川に改姓しました。
渋川という姓は、安井家の先祖が河内国渋川郡を領していたことに由来するそうです。
また、春海という名前は
雁鳴きて 菊の花咲く 秋あれど 春の海べに すみよしの浜
という歌からとったものだそうです。
なお、「天地明察」には、和算家の関孝和が重要人物として登場します。
江戸時代初期の和算家は、確かに改暦問題に関心をもったようで、関孝和の著書にも『授時発明』など改暦に関するものがあるようです。
しかし、和算家の興味はあくまでも数学のほうに興味をもっていたと『江戸の天才数学者」に書いてあります。


