今日は堀田正盛たちが眠る東海寺について書いていきます。
東海寺は、寛永15年に将軍家光が沢庵のために建立した寺ですが、明治になってからは衰退してしまい、現在は江戸時代に数多くあった塔頭の一つであった玄性院が、東海寺の名前を継いでいます。
その東海寺には、堀田正盛など堀田家の墓や丹波篠山藩青山家の墓があります。
まず、東海寺の歴史について書いていきます。
東海寺は、臨済宗に属し京都大徳寺の末として朱印寺領500石を拝領し、歴代の将軍や諸大名の帰依をうけていました。
お寺の広さは4万8千坪もあったといい広大なお寺でした。.
東海寺は、寛永15年(1638)に、3代将軍徳川家光が、沢庵和尚のために建立したものです。
家光が、品川は景色もよいし、自分もときどき鷹狩に行く場所であるから、品川で良い場所を選んで住まいを建てるように沢庵にすすめたのだそうです。
家光は、事前に沢庵と供に品川に下見に来ているそうです。
寛永14年、家光は、長徳寺ほか三力寺の境内地全部と、北品川稲荷社(現在の品川神社)の境内の一部を収公し、その跡地約4万8千坪を沢庵に下げ渡しました。
翌年寛永15年に東海寺が完成しました。
東海寺は、はじめは寺というより、山門も本堂もない普通の屋敷風に造られていたため、沢庵屋敷とも呼ばれたそうです。
東海寺が創建されてまもなくは広大な境内は空地のままになっていましたが、東海寺創建の翌年の寛永16年に境内の一郭に、時の老中堀田正盛が塔頭臨川院を建立しました。
臨川院はのち玄性院と改称しました。(これが現在の東海寺です。)
この後沢庵に帰依している大名らによって、境内に塔頭が次々と建立されました。
塔頭というのは、末寺の中の一つの形態ですが、一般の末寺とは異なり、大寺の山内に本寺を中心として、これに密接して建立されている寺院のことをいいます。
束海寺の塔頭の数は.最盛期には17ヵ院ありました。
この塔頭も、現在は春雨庵(現在は春雨寺)、清光院、髙源院(現在は世田谷区烏山に移転)、そして玄性院(現在の東海寺)の四つが残るだけとなりました。
創建当時は東海寺には本堂も山門も有りませんでした。
山門や本堂が建立されたのは、東海寺が元禄7年に火災で焼失した後のことでした。
東海寺には、沢庵の死んだ後、大覚寺から紫衣以上の高僧が一年ずつ東海寺に輪番とし派遣され、大徳寺派の関東触頭として関東の大徳寺派寺院を管掌しました。
しかし、明治維新になって東海寺が品川県の県庁に指定されたことや将軍や諸大名の庇護を失って衰退したことによって、境内の建物は次々に壊され、広大な敷地は他の用地に変わっていきました。
東海道線は昔の東海寺の境内を通過したいますし、山手通りも昔の東海寺の境内を通っています。
本堂があった場所は、現在は品川区立の小中一貫校の品川学園となっています。
現在の東海寺は、もとの塔頭玄性院が引き継いだものです。
玄性院は、寛永16年に老中堀田正盛が建立したものです。
そのため、ここには堀田正盛のお墓がありますので、堀田正盛について書いていきます。
堀田正盛は、旗本堀田正吉の長子と生まれました。
堀田正吉堀田正盛は春日局の義理の孫にあたります。
そのため、13歳の時に家光の近習として取り立てられ可愛がられました。
33歳の時に老中格となり、若くして松平信綱などとともに家光を支え、川越藩主、松本藩主、佐倉藩の藩主を歴任しました。
そして、家光がなくなった慶安4年4月20日に殉死しました。
享年44歳の若さでした。
堀田正盛の出世は継祖母が春日局であったことを考慮に入れても異常な早さで、家光と正盛は男色関係にあったという説が有力です。
そのために殉死したと言われています。
正盛の遺体は、家光が亡くなった時に殉死した阿部重次たちと共に寛永寺の現龍院に葬られています。そのため、東海寺にあるお墓は供養墓のようです。
お墓正面には「臨川院殿前拾遣賀州大守心穏宗卜大居士」と刻まれています。
塔頭の最初の名前「臨川院」は、堀田正盛の戒名からとった名前なんですね。
堀田正盛のお墓の隣の区画に近江宮川藩9代藩主の堀田正養(まさやす)戒名本光院のお墓があります。
堀田正信は、老中松平信綱ら幕閣を批判する上申書を提出し、無断で帰国してしまいました。
このため、幕府は、堀田正信が狂ったとして、佐倉藩堀田家を改易とし、正信は飯田藩へお預けとしました。
その後、正信の子供正休の代に、堀田家は吉井藩主とし手再興された後近江宮川藩に移封され、明治維新を迎えました。堀田正養は近江宮川藩の最後の藩主です。
墓碑正面には「本光院殿瑞嶽宗峻大居士」と刻まれています。
堀田家というと佐倉藩堀田家が有名です。
幕末の老中堀田正睦が有名です。
この堀田家は、堀田正盛の次男堀田正俊から始まる家柄です。
堀田宗家はあくまでも近江宮川藩藩主であった堀田家です。
堀田家の北側には、丹波篠山藩の青山家の墓地があります。
青山家の墓地は、青山家の墓」と刻まれた墓碑を中心に整備されていますが、右奥に4代藩主の忠裕の墓碑が独立しています。
青山忠裕は文化元年(1804)に37歳の若さで老中となっています。
その後、老中を30年以上勤め、相馬大作事件の裁判や、桑名藩・忍藩・白河藩の三方領知替えなどを処理しています。