鳥羽伏見の戦いは、慶応4年1月3日の夕方、一発の砲声で勃発しました。
150年前の今日、鳥羽伏見の戦いが始まったのです。
旧幕府軍は、慶応4年1月2日に大坂城を進発しました。
老中格の大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営しました。
翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れました。
一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上しました。率いるのは大目付滝川具挙でした。
一方、淀小橋から右折し淀堤を通り、伏見に向かいました。こちらは幕府陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげかた)を指揮しました。
伏見では、伏見奉行所を本営として、会津藩兵や新撰組が集結しました。
これに対して、薩摩藩側は、御香宮を本営として、伏見奉行所を三方から包囲する体制を敷きました。
鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道で勃発しました。
鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続きました。
そして、ついに3日夕方には、業を旧幕府軍は、強行突破する態勢をとりました。
これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれました。
滝川具挙が乗馬していた馬が砲声に驚き、滝川具挙を振り落して、淀方面に逃げ去ったと言われています。
一方、伏見方面でも、鳥羽での砲声が聞こえると、薩摩藩側は、伏見奉行所に向けて一斉に砲撃を開始しました。
こうして、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争のきっかけとなった戦いで、重要な戦いですので、戦いの詳細は、今後、時期を改めて詳しく書こうと思います。
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