先週土曜日に、毎日文化センターの「駅から気ままに江戸散歩」で、雑司が谷七福神めぐりを中心に雑司ヶ谷を散歩してきました。
今年の一番の寒波襲来ということで寒さが厳しい中、所々で暖をとりながら、楽しく散歩してきました。
七福神めぐりを経験している人はあまり多くいませんでした。
そのため、500円の色紙を購入した人は半数ぐらいの方だったのですが、色紙を買わなかった人も、各札所では、スタンプを押していました。
そのため、「やっぱり色紙を買ったほうがよかった」という声も聞かれました。
右写真は、中野ビル前に鎮座する布袋様でスタンプを押している参加者の皆さんです。
雑司が谷七福神について、すでに書いていますので、今日は、それ以外の主な案内ポイントを紹介します。
散歩ルートは次の通りです。
【ルート】 池袋駅 ⇒ 本立寺【榊原家墓所】 ⇒ 仙行寺(福禄寿) ⇒ 中野ビル(布袋) ⇒ 法明寺 ⇒ 観静院(弁財天) ⇒ 雑司が谷鬼子母神堂(大黒天) ⇒ 本納寺【井上家墓所】⇒ 大鳥神社(恵比寿) ⇒ 清立院(毘沙門天) ⇒ 菊池寛旧居跡 ⇒ 清土鬼子母神(吉祥天) ⇒ 護国寺駅
本立寺
本立寺は、7代目住職の時以来、姫路藩榊原家の奥方たちの菩提寺となりました。
榊原家の墓所の中には、榊原政岑が身請けした通称「榊原高尾」が眠っています。
榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれ、榊原宗家を継承しましたが、徳川吉宗が出した倹約令を無視して、吉原で派手に遊びまわり、高尾太夫を高額で身請けしました。
このため、吉宗の怒りを買い、政岑の隠居と越後高田への国替えを命じられました。
政岑は、高田に移された9か月後に31歳で亡くなりました。
高尾太夫は、政岑死亡後は江戸の上野池の端の榊原家下屋敷(現在の旧岩崎邸庭園)で菩提を弔いつつ過ごし、67歳で死亡したといいます。
法明寺
法明寺は平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。
鎌倉時代に、日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。
法明寺の山門を入るとすぐ右手に「蕣(あさがお)塚」があります。
法明寺の蕣塚は、酒井泡一作の朝顔の絵とともに「蕣やくりから龍の やさすがた 富久」と刻まれています。富久とは、雑司が谷にあった「藪そば」の主人の俳号です。
鬼子母神堂
鬼子母神(きしもじん)とは、インドの神様で、人間の子供たちをとって食べる怖い神様でしたが、お釈迦様によって改悛し安産・子育ての神様となりました。
ここにお祀りする鬼子母神の像は清土(文京区目白台)辺りより掘りだしたもので、その後、現在地に祀られました。
鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664年)加賀藩主前田利常の娘で、広島藩主浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立され、その後 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されました。
鬼子母神堂は、平成28年、国の重要文化財に指定されました。
本納寺
慶安3年(1650)、威光山法明寺の御住職によって創建されました。
ここには、浜松藩井上家の墓所があり、4代までの藩主のお墓があります。
その中に、井上正就のお墓があります。
井上正就は、2代将軍秀忠の信任が厚く遠江国横須賀藩主となり老中まで栄達しました。
しかし、老中在任中に江戸城中において,目付豊島正次に殺害されました。
これは,江戸城での最初の刃傷事件です。
原因は豊島信満が話をまとめた正就の嫡子・正利の縁組が破談とされたことを恨んだためといわれている。豊島信満もその場で自害しました。
寒い中、散歩にご参加いただいた皆さんありがとうござました。

