今日から、雑司が谷散歩でご案内した各寺院に眠る有名人について順にかいていきます。今日は、まず南池袋の本立寺に眠る「榊原高尾」について書きます。
本立寺は、池袋駅から徒歩10分ほどの南池袋公園の東側にあります。
本立寺は、江戸時代初期の元和4年(1618)創立し、その後、法明寺の末寺となり、法明寺の御住職の隠居所として使われていました。
7代目住職日意が姫路城主榊原家の宝延寿院(6代政邦の母と思われる)の帰依をうけて以来、榊原家の奥方たちの菩提所となりました。
そうしたことがら、本堂の裏側に榊原家の墓所があります。
榊原家は、徳川家康の四天王の一人、榊原康政を藩祖とする譜代名門です。
榊原康政は徳川家康が関東に入府した際に、上野国館林で10万石の城主となりました。
その後、榊原家は、陸奥国白河、播磨国姫路、越後国村上と転封を繰り返したあと、宝永元年、再び姫路藩主となった後、寛保元年に越後国高田に転封となり、越後高田藩の藩主として明治維新を迎えました。
榊原家の藩主の多くのお墓は深川の霊厳寺にあり、本明寺には正室や側室が眠っています。
榊原家の墓所には、大きな墓誌が建てられています。(右下写真参照)
この中に、「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」と刻まれている女性がいます。
この女性が「榊原高尾」です。
吉原の遊女屋三浦屋の高尾太夫は、何人もいたといわれていて、それぞれ通称で呼ばれています。
最も有名な高尾太夫が、仙台藩主伊達綱宗が身請けしました仙台高尾です。
「榊原高尾」は、姫路藩8代藩主榊原政岑が身請けしたため「榊原高尾」と呼ばれます。
榊原政岑は、姫路藩榊原家の分家に生まれましたが、姫路藩榊原家7代藩主政祐が跡継ぎがないまま亡くなったため、榊原宗家を継承することとなりました。
榊原政岑が藩主となったのは享保17年で、8代将軍徳川吉宗が享保の改革を行っていた時代です。
政岑は、吉宗が出した倹約令を無視し、吉原で遊びまわり、高尾太夫を2500両(諸説あるようですが、『御江戸吉原ものしり帖』によります)で身請けしました。
こうした姿勢は、尾張藩主徳川宗春の行いと同じく享保の改革に対する抵抗と見なされました。
そのため、藩祖榊原康政の功績に免じて家名断絶とまでは処分されなかったものの、政岑は隠居し家督は嫡男の政永が継ぐこととされ、さらに越後高田に懲罰的な国替えを命じられました。
『藩物語 高田藩』(村山和夫著)によれば、政岑は寛保2年5月に罪人を護送する「青乗物」で高田に入りました。
そして、政岑は寛保3年2月17日に31歳で亡くなりました。高田に移された9か月後のことでした。
政岑の墓は高田の林泉寺にあるそうです。墓は罪人として青い網がかぶせられていて、公式にお参りすることが禁じられました。
9代政永が赦免を願い出ましたが、幕府から許されることはなく、明治まで青い網がかぶせられていたといいます。
墓碑の表には「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」と刻まれています。
榊原高尾は、新潮文庫『お江戸吉原ものしり帖』(北村鮭彦著)によれば、19歳の時に身請けされ、姫路城の西丸に住んでいて西丸方様と呼ばれていたが、政岑が隠居となると江戸に戻り、上野池の端の榊原家下屋敷に住み、政岑の死後は、落飾し菩提を弔いつつ過ごし、天明9年(1789年)1月19日、67歳で死亡したといいます。
なお、上野池の端の榊原家下屋敷は、明治になると桐野利秋の屋敷となり、さらに岩崎弥太郎が入手し、明治29年に岩崎彌太郎の長男で三菱第3代社長の久彌の本邸が造られました。
そして、現在、「旧岩崎邸庭園」となっています。


