獏塾江戸散歩のレポート3回目です。
江戸検の今年のお題は戊辰戦争です。先日の獏塾江戸散歩では、この江戸検のお題に直結している薩摩藩上屋敷と西郷南洲と勝海舟の会見之場所跡も案内しました。
そこで、今日は「薩摩藩上屋敷跡」を紹介します。
現在、NEC本社の北の歩道脇に下のような石碑が設置されています。
しかし、薩摩藩上屋敷は、石碑が設置されている場所辺りが上屋敷の南の端で、江戸時代の切絵図を見ると、NECの本社の大部分は鳥取新田藩の屋敷だったように思います。
NECの北側にある三井住友信託銀行やセレスティンホテル、さらに戸板女子短大辺りが、薩摩藩邸の中心部分です。 右写真の右端がNEC本社、左側ビルがセレスティンホテル、その間のビルが三井住友信託銀行芝営業部が入っているビルです。
現在は三井住友信託銀行やセレスティンホテルの間に説明板が設置されています。(右下写真)
江戸の薩摩藩上屋敷は、2万1785坪もある広大な屋敷でした。
この屋敷が慶応3年12月25日に、旧幕府側の庄内藩等の軍勢により焼き討ちされた事件が、薩摩藩邸焼討事件です。
薩摩藩邸が焼討されたのは理由があります。
慶応3年10月14日に大政奉還が行われました。しかし、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らは武力倒幕を計画していました。
そこで、江戸で騒乱を起し、幕府を挑発しようとしました。
そのために、江戸の薩摩藩邸に、西郷隆盛は、益満久之助と伊牟田尚平を送り、下総出身の相楽総三を中心に浪人を集めました。
その数は、最大で500人にも上ったと言われています。
浪人たちは、商家への強盗を働き「御用盗」と呼ばれました。それだけでなく、下野出流山満願寺を拠点に騒動を起したり、甲府城の乗っ取りを計画したり、模の荻野山中藩の大久保教義の陣を襲撃したりして、関東一円で騒動を起しました。
こうした騒動の震源地が江戸の薩摩藩邸であったことから、江戸の市中取り締まりを命じられていた庄内藩はじめ、旧幕府の主戦派は苦々しく見ていました。
そうした中、12月23日に江戸城二ノ丸が炎上することになり、これも薩摩藩の仕業だという噂がひろがり、さらに庄内藩の赤羽橋屯所に鉄砲が撃ち込まれ町人が負傷するという事件がおき、ついに庄内藩が、幕府に武力行使も辞さない強硬手段を強く申し入れをしました。
そして、ついに「薩摩藩邸に犯人の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入れ」と命じられ、12月25日、庄内藩と上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩の約千人の軍勢が薩摩藩御を包囲しました。
この際、東・北・西の三方は厳重に包囲したものの、南側は包囲を緩やかにしていたと言われています。
25日午前6時から、薩摩藩との交渉が開始されましたが、交渉は決裂し、銃撃戦が開始されました。
庄内藩側は大砲も用意していて、薩摩藩邸を砲撃しました。これにより、薩摩藩邸は燃え始まりました。また、薩摩藩邸の浪人たちも屋敷に火をつけたともいわれています。
当時、薩摩藩邸にいた浪人たちは総勢200人程度といわれていて、多勢に無勢ですので、浪人たちは薩摩藩邸の西側の三田通り側に血路を開き、三田通りを南下して品川方面に逃げ出しました。
そして、品川から船にのり、相楽総三や伊牟田尚平たちは、薩摩藩の輸送船翔鳳丸に乗り込むことができました。


