獏塾江戸散歩のレポートを4回ほど行っていた関係で雑司が谷の記事が飛んでしまいましたが、今日からいくつか雑司が谷関係の記事を書いていきます。
雑司が谷で江戸時代から大きなお寺は法明寺です。ここには豊島氏などが眠っています。
それらをご案内する前に、有名な鬼子母神(きしもじん)堂も法明寺の境内にありますので、今日は鬼子母神堂をご案内します。
雑司が谷で最も有名なものは俗に「雑司が谷の鬼子母神(きしもじん)様」とよばれている法明寺の鬼子母神堂です。
鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664)4代将軍徳川家綱の代に加賀藩の3代藩主前田利常の娘で、安芸国広島藩浅野家2代藩主(浅野宗家としては3代目)浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立されたものです。
その後 拝殿と幣殿(相の間)が元禄13年(1700)に建立されました。
拝殿は桁行17.86メートル、梁間11.81メートルある入母屋造りの大きな建物です。
鬼子母神堂は、昨年(平成28年)7月25日、国の重要文化財に指定されました。
鬼子母神(きしもじん) について説明します。
鬼子母神の石像が鬼子母神堂の北側に安置されていますが、女性の神様です。(右写真)
鬼子母神はインドの神様で訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、多くの子供がいました。
しかし大変乱暴な神様で、人間の子供たちをとって食べるので、人々から恐れられました。
お釈迦様は、その過ちをやめさせるため、鬼子母神が大変かわいがっていた末っ子を隠してしまいました。
その時の鬼子母神は大変嘆き悲しみました。
そこで、お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。
そこで鬼子母神ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となり、人々から崇拝されるようになったとされています。
鬼子母神は、「鬼」という字が入っていますが、前述のとおり恐ろしい「鬼」ではないということから、角(つの)のつかない「鬼」の字が使われています。
鬼子母神堂の額も角のない「鬼」が書かれています。(右写真)
鬼子母神堂にお祀りされている鬼子母神像は、室町時代の永禄4年(1561)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたものだそうです。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかに像を自分の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、安土桃山時代の天正6年(1578)『稲荷の森』と呼ばれていた現在鬼子母神堂がある場所に、村の人々がお堂を建てました。
そのお稲荷さんが何時の頃に創建されたものかはっきりしませんが、鬼子母神堂のあるあたりの地主神だったようです。そのお稲荷さんは、現在も「武芳稲荷神社」として鬼子母神堂のずぐ近くに鎮座しています。(右上写真)