今日は、雑司が谷の法明寺に眠る豊島氏について書いていきます。
法明寺は、日蓮宗のお寺です。
寺伝によれば、平安時代の弘仁元年(西暦810年)に創建されたお寺で創建以来1200年がたつという古いお寺です。もとは真言宗のお寺で威光寺として創建されました。
鎌倉時代の正和元年(1312年)、日蓮聖人のお弟子で中老僧の一人、日源上人が日蓮宗に改宗、威光山法明寺と寺号を改めました。
江戸時代には、徳川3代将軍・家光から御朱印を受けていたそうです。
昭和20年戦災により全山焼失、昭和34年に本堂を再建しました。
(右上写真が本堂です)
前回書いたように雑司が谷鬼子母神は法明寺の境内です。
この法明寺の墓域に、豊島氏の墓地があります。
豊島氏は、桓武平氏の一族と言われています。
桓武天皇の曾孫の高望王が上総介となります。その高望王の曾孫の常将が秩父を本拠として秩父氏を名のります。この常将の子供に武基と武常がいて、武基が秩父氏本家を継ぎ、ここから畠山氏、河越氏、江戸氏など出ました。
弟の武常から豊島氏がでました。そして、葛西氏もここから出ています。
武蔵国豊島郡を支配することになったため、豊島氏と名のったと考えられています。
平安朝の末期から、鎌倉、室町時代にかけて、現在の豊島区、板橋区、練馬区、北区辺りにかけて勢力をもっていた一族でした。
豊島氏の初期の拠点は豊島郡の平塚でしたが、後に石神井城が本拠となります。
鎌倉時代には、土佐守護職に任命されるほど栄えましたが、時代が下り、戦国時代末期の、文明10年(1478)太田道灌に、石神井城を攻め落され滅びました。
インターネットで検索すると、法明寺の豊島氏のお墓は、大田道灌に攻め滅ばされた豊島氏のその生き残りで、徳川氏に仕えて八丈島の代官になった豊島忠次を中心とした一族の墓となっています。
豊島忠次について寛政重修諸家譜に記載されています。
寛政重修諸家譜によれば、豊島忠次は次のように書かれています。
天正19年から徳川家康に仕え、代官となり200石を拝領した。大坂の陣の際に、天竜川の船奉行をつとめ、のち八丈島の代官となる。寛永20年3月13日に死去し雑司が谷法明寺に葬る。
以上から、法明寺に豊島忠次が埋葬されたのは事実のようです。
しかし、法明寺の豊島氏墓地とされている場所の中央には、没年が異なる墓碑が建てられています。
墓碑銘は高雲院宗園となっていて、寛文12年7月23日没となっています。
どうも別人のようです。
この人物については、墓碑の脇にある墓誌に、白井平兵衛尉勝久(徳川家継生母月光院付大年寄絵島の祖父)と書かれています。
寛政重修諸家譜に白井勝久も書かれていました。
白井勝久は、豊島忠次の四男で、寛永9年に小十人に列し、正保2年組頭となり、寛文5年本理院(家光の正室)に仕え200石を賜る。寛文12年7月23日没し、法名日勝、雑司が谷法明寺に葬るとされています。
墓誌のとおりです。
そして、さらに寛政重修諸家譜を見ると、白井勝久の孫に次のような記載があります。
女子 大奥に仕え、のち月光院(家継母勝田氏)の老女となり、絵島と称す。
さらに次のように続きます。
正徳四年二月二日重き勤めに在ながら、東叡山及び増上寺に詣でて帰る時に、老女宮路としめし合せ.其余の侍女をも伴ひ、狂言座
に至りて見物し、暮に及びて帰りし始末重科にも処せらるべしと雖も、是を宥められて親族にめし預けらる。三月五日絵島こと漸々昇進して老女にいたり.あまたの侍女の上にも列なりながら、うちうちにては其行ひ正しからず。御使に出るおりおり、或は請ふで
宿に在るのいとま、人の貴賤をも撰ばすよからぬ者どもに相ちかづき、またはゆかりなき家に止宿し.しかのみならす狂言座の者に親しむことその身のみにあらず、同仕の侍女をも勧め遊興に耽るの條、その罪軽からすといへども、死荊を宥められ、信濃国高邁に配
流せられ。内藤駿河守清枚にめしあづけらる。
まさに絵島生島事件の大奥年寄絵島です。
絵島が白井氏の出であることは知っていましたが、白井氏が豊島氏の一族で、また絵島のお祖父さんが雑司が谷の法明寺に眠っているとは、思ってもいませんでしたので、新たな発見でうれしくなるやら驚くやらでした。