今日は、有名な「池田屋事件」について書きます。
池田屋事件は有名なわりには、インターネットには、詳しく書かれたものが少なくて、少し驚きました。そこで、池田屋事件について少し詳しく書いてみます。
池田屋事件は、新選組の名前を一気に高めた事件であるとともに新選組が最も華々しく輝いた事件でもあったと思います。また、この事件に憤激した長州藩兵が上京し禁門の変が起きていることから政治史の上でも非常に重要な事件です。
その三条小橋から20~30メートル程西に行った所に「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑があります。
これが池田屋の跡です。ちなみに、池田屋事件は池田屋騒動とも呼ばれます。
池田屋は、当時、旅籠をやっていました。長州藩の定宿だったという説もあります。
『血録 新選組』によれば、高瀬川から西に向かって通りの北側に「亀屋」「中屋」があり、次いで「池田屋」がありました。さらに南側にも旅籠が並んでいて、池田屋の間口は3件半(6.9m)という入口の狭い旅籠でした。
2月末から3月にかけての京都旅行で、「はなの舞」に入りランチ「土方歳三」を食べてきました。
料理は、「はなの舞」のどの店舗にでもあるごく普通のメニューでした。
しかし、店内の装飾は、やはり池田屋事件を意識したものでした。(右下写真)
この池田屋で、元治元年6月5日に新撰組が尊皇攘夷派の浪士を襲撃した事件が『池田屋事件」です。
文久3年8月、会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変により、尊王攘夷派の公卿や長州藩は失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。
尊王攘夷派は勢力挽回の機会をうかがっていました。これを阻止すべく新撰組は市中警戒を強めていていました。
6月5日、新撰組は、四条小橋西側で薪炭商を営む枡屋に踏み込み、主人喜右衛門を逮捕します。
喜右衛門の本名は古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)といいました。
古高俊太郎は、近江国栗太郡古高村で生まれ、枡屋を営む湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋(湯浅)喜右衛門を継承しました。
「池田屋事件の研究』(中村武生著)によると枡屋は福岡藩黒田家の御用達で、古高は7代目にあたるそうです。また、古高が逮捕されたのは、8月18日の政変以降疎遠になりつつあった親長州派の有栖川宮と毛利家を結ぶエージェントの役割をはたしていたことが重要だろうと書いてあります。
四条通りの一本北側の小路に、古高俊太郎寓居之跡の碑がありました。これが枡屋のあった場所です。
「しる幸」というお店の玄関脇にありました。(左写真)
枡屋喜右衛門を壬生の屯所に連行し、厳しく追及しました。しかし、名前が「古高俊太郎」とだけ白状しました。
しかし、それ以外は口をわりませんでした。そこで、土方歳三が拷問により古高を自白させました。
土方歳三が行なった厳しい拷問は、古高俊太郎を縛り上げ梁に逆さに吊るし足の裏に五寸釘を打ち込み、火をつけた百目蝋燭から蝋を流すという拷問だったと永倉新八の「新選組始末記」にかかれています。
古高俊太郎の自供した内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というものでした。
驚いた近藤勇は、すぐに京都守護職、会津藩、京都所司代に連絡し、協議しました。
その結果、新撰組と諸藩兵士で協同で探索をすることになり、八坂神社前の祇園会所で落ち合うことにしました。
この時期、新撰組の隊員の減少が続き、全員で40名程度だったといわれています。
このうち池田屋事件に参加した隊員は34名であり、祇園会所にも34名が動員されたものと思われます。
この人数では、市中探索を行うには、十分とはいえませんでしたが、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切りました。
近藤隊と土方隊の二手に分け、土方隊は24名で鴨川東側を北上しつつ縄手通を探索することにし、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助ら9名を率いて10名で鴨川西側の木屋町通りを北上しつつ捜索を開始しました。(『図解雑学新選組』(菊地明編)による)
近藤隊は、木屋町通りを探索しつつ北上していきました。そして、午後10時半ごろに、池田屋にいたり、池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見しました。
池田屋で尊王攘夷派の志士たちが会合しているのに気がついたキッカケについては、いろいろな本にさまざまに書かれています。事前に情報があったとか、池田屋に長州藩の紋がある提灯が下げられていたからとか、夜遅い時間に灯りがもれていたからとか書かれています。
近藤は、玄関先と裏側に数人づつ配置し、池田屋には、近藤勇は、沖田総司、永倉新八・藤堂平助らと踏み込みました。
池田屋に踏み込んだところ、池田屋の主人が2階に向かう階段付近で、2階にあわてて大声をかけました。
近藤勇と沖田総司が、2階に駆け上がると、20数名の尊攘派志士がいたそうです。
近藤たちと志士たちとの間で激しい戦いが始まりました。
戦いの途中で、沖田総司は、結核のため戦えなくなり、戦線を離脱します。また藤堂平助も負傷しますが、新撰組は戦い続けます。
戦っている途中、土方隊も到着し、戦いに参加し、新撰組は一気に優位にたちます。
さらに、出動の遅れた会津藩の軍勢も到着し、周辺をかためました。
2時間にわたる戦いにより、大勢の尊王攘夷の志士たちが殺されたり逮捕されました。
正確な数はわかりませんが、近藤勇が養父近藤周斎にあてた手紙では、死者7名、負傷者4名、逮捕者23名と書かれています。
死者の中には、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)、長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)・望月亀弥太らがいて、この事件により、倒幕が一年遅れたといわれるほどの大きな影響を与えました。
この戦いに勝った、新撰組は、幕府から多くの恩賞が与えられました。
全員に一律十両が与えられさらに別段金が与えられ、別段金に差がありました。近藤勇には別段金20両、土方歳三は別段金13両でした。
また、新選組は一躍全国にその名を知られようになりました。








