第2回「幕末・維新 これは覚えてね!」模試正解
土曜日に出題した模擬試験の正解を発表します。
今回は、文久3年に起きた出来事についての問題を出題しました。
文久3年は、新選組の結成・下関砲撃事件・薩英戦争があり、とくに八月十八日の政変により幕末政局が大きく変わった重要な年ですので、しっかり勉強してください。
1、②新選組は、壬生浪士組時代から局長の近藤勇が統率していた。
新選組は、浪士組の一部が京都に残留し結成され、会津藩が預かることになり、壬生浪士組と呼ばれました。
また、新選組を名のったのは、八月十八日の変の後からです。
そして、隊旗の「誠」が「言」と「成」からなっているということは『江戸時代年表』(山本博文監修)P243に書いてあります。
2、②下鴨神社と上加茂神社
上洛した将軍家茂が孝明天皇に供奉して下鴨・上加茂神社で攘夷祈願をしたことは 基礎的参考図書の『幕末・明治維新』(西東社刊)と『幕末・維新』(新星出版社刊)には書いてありませんでしたが、重要なことですので、覚えてほしと思い出題しました。
文久3年3月4日に上洛して二条城に入った家茂は、3月11日、下鴨神社と上加茂神社に攘夷祈願のための行幸へ供奉しました。
「幕末史」(佐々木克)のP96,97、「開国と攘夷」(小西四郎)P298などを参照してください。
なお、孝明天皇は、攘夷祈願のため石清水八幡にも参拝していますが、この時、家茂は体調不良を理由に供奉しませんでした。(「開国と攘夷」(小西四郎)P298参照)
3、①往きは東海道、帰りは海路
家茂が上洛するルートとしては、当初は幕府軍艦に乗っていく海路が予定されていましたが、生麦事件の賠償問題が緊迫したため、東海道をとることになりました(「開国と攘夷」(小西四郎)P296参照)。そして2月13日に江戸を出発し2月4日二条城に入りました。
短期間で江戸に帰る予定でしたが、尊王攘夷派の妨害もあり江戸帰城が大幅に遅れました。
家茂が京都を離れたのは6月9日であり、大坂に下り軍艦に乗り6月16日江戸に帰ってきました。「開国と攘夷」(小西四郎)P301を参照してください。
4、 ④白石正一郎
奇兵隊は、基礎的な用語ですので、よく御存じだと思います。高杉晋作の提唱により、結成されますが、資金援助するなど白石正一郎が支援しています。
白石正一郎は下関の豪商で、尊王攘夷の考えをもち、高杉晋作、平野国臣、真木和泉などとの交流もありました。
奇兵隊の結成は問題文の通り白石正一郎の屋敷で行なわれ、白石正一郎自身も奇兵隊に入隊しています。(「江戸時代人名控1000」参照)
また、『幕末・維新』(井上勝生著)P96、『幕末史』(半藤一利著)P170も参照してください。
5、③イギリスの軍艦には、最新鋭のアームストロング砲も積んでいたので、被害はほとんどなかった。
薩英戦争は、生麦事件の賠償と犯人の処罰を要求するイギリスに対して、薩摩側が満足する回答を拒否したため、砲撃が開始されました。ちょうど台風の中で砲撃が始まったこととイギリス側の油断もあって、イギリス艦隊の旗艦ユーリアス号は薩摩藩の砲撃をうけ、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐が即死するなど死傷者60人余りの被害を受けました。『幕末・明治維新』(西東社刊)P96を参照してください。
アーネスト・サトウは日本着任早々に遭遇した事件でしたが、「ニール大佐(*)から私に至るまで公使館の全員が軍艦に乗りこむことに決まり、(中略)私はアーガス号に搭乗した」と『一外交官の見た明治維新』(岩波新書)P105に書いています。
(*ニール大佐とはイギリスの代理公使ニールのこと)
6、④天誅組
天誅組の変も基礎的用語ですので、覚えておいてください。
天誅組は、孝明天皇の大和行幸を機に倒幕をはかるために結成された尊攘派の組織です。8月17日に五条の代官所を襲撃しますが、八月十八日の政変が起き、孤立無援となり、諸藩の軍勢に鎮圧されました。中山忠光は中山忠能の七男です。姉の中山慶子(よしこ)は明治天皇の生母です。
(『幕末・明治維新』(西東社刊)P104、『幕末・維新』(新星出版社刊)P84参照)
7、②生野の変
生野の変は、天誅組の変に呼応して但馬で起きた事件で、これも基礎的な用語です。平野国臣は長州に下り、沢宣嘉を説得し主将に迎えました。この時に、長州藩の奇兵隊士たちも同行しました。
生野で農兵を募集した後、生野代官所を襲撃しましたが、諸藩の攻撃をうけ、壊滅しました。
(『幕末・明治維新』(西東社刊)P104や『幕末・維新』(新星出版社刊)P84参照)
8、③薩摩藩
八月十八日の政変は幕末の中で重大事件ですので、この政変がどういうもので、どのように起き、どのような結果となったかは、よく勉強しておいてください。
文久2年前半、朝廷を牛耳っていた長州藩を中心とした尊攘過激派の暴走に危機感を頂いたのは薩摩藩でした。そこで、薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩の秋月悌次郎に提携の話を持ちかけました。秋月から報告を受けた松平容保も同意し薩摩藩と会津藩の提携がなりました。さらに両藩は中川宮に働きかけ中川宮の賛成を得て8月18日の政変が成功することになりました。
『幕末・明治維新』(西東社刊)P102、『幕末・維新』(新星出版社刊)P82を読んでください。
なお、八月十八日の政変は、過激な尊王攘夷派を嫌っていた孝明天皇の意思を薩摩藩が報じて行動したとも書いてある本もあります。『幕末・維新』(井上勝生著)P119、「幕末史」(佐々木克)のP108以降を参照してください。
9、 ②妙法院
これは3月に私のブログに書きましたので、多くの方がわかったと思います。
妙法院は、京都国立博物館の東側にある天台宗三大門跡の一つに数えられる由緒あるお寺です。七卿と長州藩兵は八月十八日の政変後、妙法院に集まり協議した結果、長州にくだることを決定しました。
(『幕末・明治維新』(西東社刊)P103参照)
「幕末史」(佐々木克)のP120、「開国と攘夷」(小西四郎)P337なども参照してください。
10、①参予
「参予会議」については、基礎的参考図書の『幕末・明治維新』(西東社刊)や『幕末・維新』(新星出版社刊)にも全く触れられていませんし、少し勉強した人も見落としがちなテーマですので、この問題は、少し難しかったかもしれません。
従来、朝廷の会議は公卿だけがメンバーで武家は参加していませんでした。そこで、朝議に武家が参加できるように松平春嶽が交渉し許可されたのが、「参予」です。
12月30日に参予に任じられたのが、問題文に載せた5人ですが、翌年1月13日には島津久光が任じられました。
『幕末・維新』(井上勝生著)P122や「幕末史」(佐々木克著)のP135を参照してください。



