姉小路公知暗殺
今日からは、八月十八日の変から禁門の変までを中心に書いていきます。
今日は、姉小路公知の暗殺事件から書いていきます。
文久3年5月20日の夜、尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知が暗殺されました。
暗殺された場所から、朔平門外の変とも猿ヶ辻の変とも呼ばれています。
朔平門は京都御所の北側にある門です。(右下写真)
二人とも小柄ですが、三条実美は色白で柔弱なタイプであるのに、姉小路公知の方は対照的に色黒で精悍だったため、三条実美は白小豆、姉小路公知が赤小豆と言われていたようです。
平凡社東洋文庫『京都守護職始末』には次のように書かれています。
姉小路少将は少壮で、頭がよく、弁舌か立ち、学習院に出る堂上は数人あったが、彼におよぶものは少なかった。集・てくる浮浪の徒も多く。三条実美卿に次いで、名声曖々としていた。
また、『京都守護職始末』には襲撃の様子は次のように書いてあります。
5月20日の夜、御所の宣秋門を出て、御所の北側にある朔平門外にさしかかったところ、突然三人の賊があらわれて、姉小路公知を刺した。
そして、襲った賊は刀と下駄をのこして去ったが、その刀をしらべると、薩摩の鍛冶がきたえたものであり、刀装も薩摩藩士が多く佩用するもので、柄頭(つかがしら)に藤原の二字と、縁(ふち)に鎮英の一に子が金で嵌め込んであった。下駄もまた、薩摩藩士が好んではくものであった。
探索した結果、薩摩藩の田中新兵衛が容疑者として逮捕されました。
田中新兵衛は薩摩藩士。もともとは船頭の子ともいわれています。安政の大獄に協力した島田左近を暗殺したとも言われる俗に「人斬り」と呼ばれる一人です。
その田中新兵衛は町奉行所で、尋問中に自刃してしまいました。
その様子は、『京都守護職日誌(第一巻)』では、次のように書かれています。
奉行所では田中新兵衛を尋問するにあたって、定法どおりに刀を預かろうとしたが拒絶され、なおも役人が申し入れると、脇差を抜いて自刃してしまった。
田中新兵衛が持っていた刀が現場に残されていたことが決定的な証拠となるので、それを突き付けられて覚悟の死を遂げたという解釈もなりたちます。
その一方で、明治になってからなの史談会における田中新兵衛は刀を盗まれたと言っていたという証言もあるので、田中新兵衛は刀を盗まれたことを恥じて自刃したということも考えれらるようです。
しかし、田中新兵衛が自刃してしまったので、姉小路公知暗殺の真犯人は結果的にわかりませんでした。
ところで、尊攘激派の姉小路公知が暗殺されたことについて、『京都守護職日誌(第一巻)』に、束久世通禧は明治28年に史談会の席でが次のように語った書いてあります。
これによると、姉小路公知は、勝海舟の説得により、攘夷論の舌鋒が鈍ったので、武市瑞山たちは幕府に籠絡されたと怒っていたということのようです。
こうしたことから、姉小路公知が開国論に転向したと疑われたので襲撃されたのだという説もあると『京都守護職日誌(第一巻)』に書かれています。
猿が辻は、京都御所の東北部分にあります。
京都御所の東北角は鬼門とされ、鬼門除けのため、築地塀の角が欠かれています。(右2段目。3段目の写真参照)
そして欠いた部分に日吉山王社の神のお使いの猿を祀られています。
この猿が夜な夜なぬけだしては通行人にいたずらするため、金網で封じ込めたと伝えられています。
なかなか写真にとりにくいのですが、猿がいるのがわかりますでしょうか。


