八月十八日の政変について今日から2回に亘って書きます。
今日は、「八月十八日の政変」の直前の状況について書きます。
姉小路公知が暗殺された翌日、御所の御門九門の警備が強化されました。
一方、尊王攘夷派は、6月8日に、尊攘派の長老である真木和泉が久留米から上洛したことから、非常にその動きを活発化させました。
そして、孝明天皇の大和行幸を計画しました。これは表向きは、神武天皇陵と春日大社を参拝し攘夷祈願をするという名目ですが、実は、これを機に倒幕親征の軍を起そうという目論見もあったようです。
そして、8月12日に、ついに大和行幸を実施することが決定されました。
さて、これ以降が八月十八日の政変に直接関係する部分です。
前述したような尊王攘夷派の横暴を黙認できないと考えた薩摩藩が、姉小路公知の暗殺により失った地位の挽回を狙って会津藩に提携を申込みました。そして、会津藩は早速松平容保に報告し、その同意を得て、薩摩藩との提携に合意をしました。
これにより、尊王攘夷派の追い落としの中心勢力が揃いました。そして、宮中の公武合体派の中心人物中川宮を巻き込んで賛同を得、孝明天皇に建言します。孝明天皇はこの計画に同意し、政変が実行されました。
これが、いままでの私の認識でした。
つまり、八月十八日の政変は、薩摩藩が計画し会津藩に呼びかけ、それから孝明天皇の同意を得て実行されたというものです。
しかし、実は、八月十八日の政変は、孝明天皇その人が願っていたもののようです。
例えば、岩波新書「幕末・維新」(井上勝生著)P119には次のように書かれています。
平公家を加えた激派が朝廷の実権をにぎり、天皇の権威を踏みにじる勢いになっていた。
天皇は、「下威、盛んに、中途の執り計りのみにて、偽勅の申し立て」があると、薩摩藩の島津久光に訴え、「有名無実の在位」、「悲嘆至極」と激怒していた。朝廷の秩序を乱した激派が天皇の逆鱗にふれたのである。天皇が、激派追放(「姦人掃除」)を要請する「内勅」を、久光に密かに送るのは五月末のことであった。(中略)薩摩藩は上京の要請は受けなかったが、京都藩邸で激派追放の計画を用意した。計画は、政変の五日前、京都守護職に任じていた会津藩に伝えられてから、急速に具体化する。
読んでお分かりになると思いますが、孝明天皇が、三条実美らを排除したいと考え島津久光に働きかけていたということから政変が計画されたということです。
この孝明天皇から島津久光に手紙が届いてから政変にいたる事情について、中公新書『幕末史』(佐々木克著)は詳しく書いていますので、それを要約します。
詳しく知りたい方は『幕末史』P108以降をお読みください。
5月末日に書かれた、久光に宛てた天皇の手紙には、「朕が望む攘夷はおこなわれず、偽勅さえ出され、悲嘆の極みだ。朕と真実合体して『姦人を掃除』するために、急いで上京してほしい」と記されていました。この手紙のなかの『姦人』とは三条実美などの攘夷強硬論者たちです。
しかし、島津久光は、朝廷内外に協力者がいなければ、自分一人の力では、何事もできないという考えから上京しませんでした。
また、イギリス艦隊が鹿児島に向かうとの情報も届いて上京する余裕などなかったという切迫した状況にあったという事情もありました。
久光が上京を控えている中で、あまりにも尊攘強硬論者の横暴がひどいことから、鷹司関白と議奏の三条実美、広幡忠礼、長谷信篤、徳大寺実則に「自分も退位するから、その方も辞職せよ]と天皇の言葉が書面で伝えられました。この天皇の怒ゲの言葉は、すぐに外部にも広がった。薩摩藩邸の村山斉助が薩摩に下り、7月末には久光はじめ薩摩の首脳部に、天皇の激怒したことが伝えられたため、ここでついに薩摩首脳部は、天皇が求める「姦人掃除」に動くことを決断しました。
島津久光と薩摩藩首脳部の指示をうけた村山斉助が、京都に帰着したのが、8月13日の午前中(あるいは十二日の夜。)たったようです。
13日のうちに、京都の薩摩藩邸の高崎左太郎が会津藩士秋月悌次郎に、久光の指示を丁寧に告げて相談しました。秋月は、ただちに藩主松平容保に高崎の話を伝えたところ、容保は中川宮朝彦親王が同意なら協力しようといったそうです。
高崎佐太郎が中川宮朝彦親王に話したところ、親王も積極的でした。
16日に、中川宮が参内して孝明天皇に計画の詳細を告げようとしたが、天皇に面会できる時間が十分にはなかったため概略の話だけして退出しました。
その日の夜、天皇から政変の実行を決断した旨の手紙が届きました。
17日は、二条斉敬、徳大寺公純、近衛忠熙も同意しました。
こうして、8月18日を迎えることになります。18日の動きについては次回書きます。



