八月十八日の政変の政変で、堺町御門の警備を解かれた長州藩と朝廷を追われた七卿は妙法院へ移動しました。
その妙法院が、幕末の「七卿落ち」の舞台となりました。
妙法院は通常非公開なため、拝観できるのは特別公開の時だけですので、2017年冬の非公開文化財特別公開で、公開されましたので、2月末に拝観してきました。少し、時間がたちますが、『七卿落ち』に合せて妙法院を紹介します。
妙法院は、東大路七条にあります。
京都国立博物館から東大路通を挟んで東側にあります。
妙法院の近辺には、国立博物館、三十三間堂、智積院など有名な観光スポットがあります。しかし、妙法院は通常非公開なため、あまり名前が知られていないように思います。
妙法院は、延暦寺の別院として比叡山上に建てられ、江戸時代初期に現在地に移されたといわれています。
代々皇室から住職を迎えた門跡寺院で、梶井門跡,青蓮院門跡と並ぶ天台宗三門跡の一つです。
右写真は、唐門と呼ばれている勅使門です。桜町天皇下賜と伝わっているそうです。
さすが門跡寺院ですね。
近世の妙法院は、方広寺、三十三間堂(蓮華王院)、新日吉社を兼帯する大寺院で、現在も三十三間堂の本坊です。
右写真は庫裏です。
妙法院の庫裏は国宝に指定されています。
桃山時代に作られた国内最大級の建物です。
豊臣秀吉が方広寺大仏殿の「千僧供養」を行った際に、台所として使用されたと伝えられています。
内部のうち、土間・板間部分は天井板が張られていなくて、梁などの構造材をそのまま見えますが、豪壮な造りになっています。
三条実美たち七卿が、一旦長州へ下り再起をきすことを決めた場所が宸殿です。
その旧宸殿は、明治5年に撤去され、現在の宸殿は明治31年に再現されたものです。
宸殿に掲示されていた説明板では、8月18日の夕方、長州藩士寺島忠三郎らが使者となって、妙法院の寺侍山田筑後守成就と会見し、七卿たちが妙法院へ来ることが知らされたそうです。
妙法院での大評定は、長州藩士たち2600人に守られて始まりました。そして、長州落ちが決定し、19日早朝雨の中出発したそうです。
なお、当時の門跡は稠宮(さわのみや;のちの有栖川宮威仁親王)だったそうです。
なお、妙法院の内部は写真撮影禁止です。上の寝殿の写真は、妙法院のお許しを得て、パンフレットから転載したものです。





