今日は、禁門の変の2回目です。
伏見、山崎、天龍寺に陣を敷いた長州藩兵は、京都を南から西にかけて包囲する態勢をしきました。
これに対して、反長州の陣営では、会津藩兵が約1500名、一橋慶喜配下の兵が約800名、薩摩藩が約500名で、その他の藩は当初は様子見でした。
京都守護職松平容保は、一貫して、長州討つべしという強硬論でしたが、薩摩藩は、当初、会津藩と長州藩の私闘だとして、禁裏守衛総督の一橋慶喜からの要請を拒否していました。現実的は軍勢を保有していませんでしたので、要請を受けようもなかったという理由もあったかもしれません。しかし、小松帯刀と西郷隆盛は、情勢の展開では朝廷は討伐を命じるかもしれないと考え、急遽、国許へ藩兵を送るよう要請しました。
一橋慶喜は、諸藩の態度がはっきりしないことから、明確な討伐方針を出しかねていました。
7月16日に小松帯刀・西郷隆盛が要請していた薩摩藩兵450名が京都に到着しました。
また、有力諸藩が会合し、長州征討の方向で、一橋慶喜や朝廷に働きかけました。
これにより、7月17日、朝議は、長州勢の退去と、もしその勧告に従わなければ追討すると決定されます。しかし、長州藩はこの朝議に従おうとしませんでした。
以上は『幕末政治と薩摩藩』(佐々木克著)を基に書きましたが、禁門の変当日の7月18日の動きについては『京都の歴史』(京都市編)が詳しいので、以下は、それに基づいて書いていきます。
幕府側では、開戦体制を整え、主力部隊は伏見方面に大垣・彦根藩兵を配置し、山崎・八幡方面には、宮津・津藩兵など起用して戦線をつくり、天竜寺方面の配備には薩摩・膳所・福井・小田原の各藩をつかせ、山崎・天竜寺間の間隙部分には小浜藩兵を置いて、扇形陣をしいたのである。
肝心の御所には中立売門に筑前藩、蛤御門に会津藩、台所門前に桑名藩、堺町御門に福井藩、乾門に薩摩藩という強兵を配置しました。
この洛中洛外に配備した諸藩兵の総数は、正確な数は不明のようですが、6万とも7万ともいわれます。
右写真は、男山の石清水八幡宮です。
久坂玄瑞は、世子毛利元徳が3000の兵を率いてくるので、それを待つため一旦大坂までしりぞくことを主張したといわれていますが、真木和泉・来島又兵衛は、断固決戦を主張し、無暴な進撃論を主張した為、軍議はついに強硬論に押し切られ進撃と決まりました。
この間の軍議の様子は、古川薫著『花冠の志士』では、来島と久坂が激論をかわし、最後には来島が「我々だけでも戦う」といって席をけり帰って行く気勢に引きずられて進撃やむなしとなる様子が書かれています。
7月19日早暁、戦端は福原越後の指揮する長州勢と伏見方面で開かれました。禁門の変の開始です。
伏見を出発した福原越後の軍は、藤森のあたりで大垣藩兵と衝突しました。
福原軍は、待ち構えていた大垣藩兵に猛烈な銃撃をあび、軍勢は総崩れとなって、四散してしまい、福原越後も負傷し、ようやく山崎に逃げました。
福原勢は、一旦は体制をたて直し、竹田街道から入京しようとしたが果たさず退却し、伏見方面の戦いはあっけなく終わりました。
しかし、天竜寺に駐屯していた国司信濃隊は精兵700人といわれ、巧みに警備陣をすり抜け、間道を通って一条戻橋に達し、そこから中立売・蛤・下立売の諸門に向かって進撃し、午前7時頃、御所に達しました。右下写真が蛤御門です。

この戦闘の中で、来島又兵衛は銃撃により戦死しました。
現在も京都御所の蛤御門を100mほど入ると大きな椋(むく)の木があります。
この付近で来島又兵衛が戦死したと説明板に書かれています。右写真が椋の木です。
来島又兵衛の戦死により、さしもの長州勢も強勢が弱まり、ついに烏丸通より退却していきました。

右写真が鷹司邸跡です。大きなシイの木が目印です。
久坂玄瑞は、高杉晋作とともに松門の龍虎と呼ばれ、入江九一は、松門の四天王の一人に数えられた俊逸でした。
久坂玄瑞は鷹司邸での戦いで銃撃を受け負傷したため、潔く自刃しました。この時、入江九一も一緒に自刃すると言いましたが、久坂玄瑞の逃げろという説得に応じ鷹司邸を脱出をしましたが、屋敷の外で、会津藩兵との闘いで亡くなりしました。この後、寺島忠三郎も鷹司邸で久坂玄瑞と一緒に自刃しました。
鷹司邸を脱出した真木和泉は、天王山に退いたが、21日、新選組を先頭に会津兵が追撃するなかで、同志16人とともに自刃しました。





