この蛤御門は、江戸時代初期には、蛤御門とは呼ばれていませんでした。
京都御苑の蛤御門を訪ねてみると、蛤御門の近くに説明板が立っていて次のように書かれています。
つまり、蛤御門は、もともとは『新在家門』と呼ばれていました。
それでは、新在家とは何かと調べました。新在家とは、本来は一般名称のようです。つまり、古くからある集落に対して、新しくできた集落をさす言葉のようです。
つまり、蛤御門の旧名「新在家門」とは新在家にある門という名前だったようです。
新在家という地名が京都御所の蛤御門周辺の地名だということがわかったうえで、『京都守護職始末』を読んでみると、蛤御門での戦いで、長州藩がどのように攻めたのかがよくわかります。『京都守護職始末』では、次のように書いてあります。
「さて、嵯峨兵の一部の児玉、来島の率いる賊兵は、烏丸通蛤門と下立売門との問に集合して、公卿の八条邸の南の塀柵を破って乱入し、新在家を北にのぼり、わが蛤門の守備の兵に砲撃を加えた。わが隊長一瀬伝五郎らは士卒を督して、これと戦った。」
ここの部分を下記の内裏図を見ながら説明します。
図の中央にあるのが蛤御門です。右端近くに「八条殿」と書かれた屋敷があります。これが上記の八条邸ですが、その右側に道路があります。この道路には、多少の柵が設けられていたと思われますが、その柵を乗り越えた来島又兵衛の一隊が御所内に入りこみ。八条邸の前を通って蛤御門に向かいました。

このように長州藩兵は南から攻めてきたため、会津藩の大砲が西に向かっていたので、大慌てで、会津藩の大砲は、急遽南に向けられて、長州藩兵を砲撃した様子が『京都守護職始末』に次のように書かれています。
はじめ、わが衛兵たちは、敵が門外から来るものと予想して、大砲二門を門の外に引き出し、烏丸通を東に向って蛤門を攻める敵を待ってぃたが、賊兵が新在家から攻めてきたので、いそいで大砲を門内に引き入れ、南に向って砲撃を開始した。
賊兵は、遂に敵することができないで公卿の石山邸に入っで、そこからわが兵を砲撃した(石山邸には、前夜から賊兵か潜伏していたということである)。わが兵はこれと戦って、死傷者が数多く出た。来島らは、必死に兵を鼓舞して奮励せしめたが、勢いが振るわない。そのうち、桑名の兵士もわが軍に加わって、共に進み、遂に来島を仆(たお)した。賊衆は瓦解して敗走した。
長州藩兵は、石山邸(上の地図で、八条邸の左に石山殿とある屋敷)に入り込み、反撃を試みました。しかし、会津藩には、桑名藩の応援も加わり、ついに来島又兵衛は倒れされて、長州藩兵は、敗退することになります。
その根元にある説明板には、次のように書かれています。(右下写真)
上の御所の地図を見ると蛤御門の右上に「清水谷殿」と書かれた屋敷があります。
来島又兵衛は、この清水谷家の近くで銃撃され倒れたようですね。
最後の蛤御門の話題を二つ書いておきます。
上の地図に書かれている蛤御門の絵をよく見てください。
蛤御門が左を向いています。左は南側です。現在の蛤御門は西を向いていますが、江戸時代には南を向いていたことがわかります。
それと、蛤御門が門を開いた火事ですが、諸説あるようですが、宝永の大火の際に門を開けたという説が有力です。
蛤御門が開けられたのは天明の大火だというふうに書いてあるものもありますが、天明の大火以前に、蛤御門と書かれた史料もあるので、天明の大火以前から蛤御門と呼ばれていたと考えるのが至当というのが京都市立歴史資料館の説明でした。






