小枝橋(鳥羽伏見の戦い①)
今日は、鳥羽伏見の戦いについて書きますが、戦いが勃発した小枝橋の戦いを中心に書いていきます。
慶応3年12月25日に起きた江戸の薩摩藩邸焼討事件の報は、軍艦に乗って上坂してきた大目付滝川具挙によってもたらされました。

ここが、歴史の転換点でした。
いままで公議政体派が進めていたように軽装で上洛し議定に任命されるのを待つ平和雄路線か、それとも大勢の軍勢をもって上京するかの決断が徳川慶喜は求められました。
徳川慶喜は、強硬論に押され、ついに、正月元旦、多くの軍勢による上京を触れだします。
そして、次のような薩摩を弾劾する「討薩の表」が、元旦に準備されました。
臣慶喜、謹んで去月(慶応3年12月)9日以来の御事体を恐察たてまつり僕えば、一々朝廷の御真意にこれなく、全く松平修理大夫(島津茂久)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗侯儀も、全く同家家来の唱道により、東西響応し、皇国を乱り侯所業別紙の通りにて、天人共に憎むところに御座侯あいだ、前文の奸臣どもお引渡し下されたく、万一御採用相成らず候わば、止むを得ず洙戮を加え申すべく候。
内容は「12月9日の王政復古の大号令以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられず、島津家の奸臣どもの陰謀だということは天下の知るところである。特に浪人どもを集め江戸で押込み強盗を働くことも島津家の家来が引き起こしたもので、天も人も共に憎むところであるから奸臣の引渡しを要求する。万一朝廷からその御沙汰かなかったらやむ得ず洙戮を加える」というものですで、別紙には具体的な罪状を列挙していました。
徳川慶喜は「君側の奸を除く」という名目で薩摩藩と戦う意思を表明したのです。
老中格の大多喜藩主大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、淀に本営を置き、そこで宿営しました。
翌3日、旧幕府軍は、淀からの進軍ルートは二つに分れました。
一方は、淀小橋を渡り左折して鳥羽街道を北上しました。率いるのは大目付滝川具挙でした。もう一方は、伏見に向かいました。
鳥羽伏見の戦いは、鳥羽街道の小枝橋で勃発しました。
小枝橋は、鳥羽街道が、鴨川を越えるための橋ですが、現在の小枝橋は、江戸時代の小枝橋より少し北側に移動しています。(右2段目の写真)
江戸時代に小枝橋が架かっていたたもと近くに「鳥羽伏見の戦い 勃発の地」の石碑と説明板が設置されています。(最上段の写真)
江戸時代の小枝橋の300mほど東側に城南宮(右写真)がありますが、城南宮の説明板には、城南宮が本営となり、参道に大砲が布陣されたと書いてあります。
鳥羽街道を守護する薩摩藩兵に対して、大目付の滝川具挙が「通せ」と要求しますが、薩摩藩側は「通せない」と拒否し、押し問答が続きました。
薩摩藩側は、「朝廷に問い合わせている」と答えたようですが、もともと通すつもりがありませんので、らちがいきません。
これに対して、薩摩藩は、砲口を開き、旧幕府軍に向け発砲し、ついに戦端が開かれました。
大目付滝川具挙が乗っていた馬が大砲に驚き、鳥羽街道を淀に向かった走りさっていきました。
大目付が逃げ去るようではいかがなものなんでしょうね。
道幅は昔をあまり変わってないのだろうと思います。
この鳥羽街道を旧幕府軍は、2列縦隊で進んでいました。
勃発の地の碑の近くに「鳥羽離宮跡公園」がありますが、その公園の中の秋の山という小高い岡の上に「鳥羽伏見戦跡碑」の石碑がたっています。(右写真)
この場所に大砲も敷かれていたのではないかと思われます。
岡の麓にはライオンズクラブの立てた「鳥羽伏見の戦い勃発の地 小枝橋」の碑(右写真)がありました。
こうして、旧幕府軍は敗北することになりますが、 鳥羽での砲声が鳴り響いたのを聞いた西郷隆盛は「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるより嬉しかりけり」と喜んだとと言います。






