千両松での戦い(鳥羽伏見の戦い⑥)
伏見方面から京阪淀駅に入る手前の左手に競馬場が広がっています。
これが京都競馬場です。春の天皇賞や菊花賞が開催される競馬場ですので、競馬ファンはもちろんのこと競馬ファン以外にもなじみのある競馬場です。
京都競馬場の北側を通る道路脇に「戊辰役東軍西軍激戦之地」と書かれた史跡があります。(下写真参照)

中央に戊辰役東軍戦死者埋骨地と刻まれた石塔が立てられていて、左の石碑の裏面には次のように刻まれています。
慶応4年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀堤千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、非命に斃れた会津・桑名の藩士、及び新選組、並びに京都所司代見廻組の隊士に捧ぐ。
下写真の左手の石碑の裏面に上記文言が刻まされています。

鳥羽伏見の戦い当時、伏見から淀への道は宇治川沿いの狭い堤防上の道路で「淀堤」と呼ばれていました。
この淀堤には、「千両松」と名付けられた場所があります。
千両松とは、豊臣秀吉が植えたと言われる松で、あまりの見事さにその名が付いたとされます。
正月3日から4日にかけて敗北した旧幕府軍は、伏見街道方面では、この千両松で新政府軍を向かい討ち、ここで、旧幕府軍と新政府軍との間で激しい戦いが行われました。
千両松がある堤防の南側は宇治川が流れ、北側には横大路沼という沼があり、湿地帯が広がっていました。
そのため、ここでは大軍勢を展開することができませんでした。
伏見で初戦に敗れた旧幕府軍は淀に撤退していましたが、ここで、新政府軍を食い止めるため、淀小橋から千両松近くに兵を展開しました。
千両松の狭い道を通過してくる新政府軍を向かい討つため、芦原にも兵を散開させていました。
旧幕府軍の中心となったのは会津藩別選組と新選組でした。
別選組と新選組は剣術に優れた剣士揃いでしたので、新政府軍が千両松を抜けた時点で斬りこみ攻撃をしました。
これにより新政府軍は、多くの死傷者を出したため、一旦、千両松の並木奥に兵を引いた後、体制を整え、一斉射撃を行いました。
これにより、新選組では、結成当時からのメンバーで当時六番隊組長であった井上源三郎が戦死しました。また、副長助勤の山崎丞も重傷をおい、新選組隊士14名が死亡しました。(中公新書「新選組」による)
淀堤で敗北した旧幕府軍は、淀城下に撤退し、しかも淀城への入城拒否され、さらに、橋本方面へ退却していきました。
下記地図のの赤印が「戊辰役東軍西軍激戦之地」です。青印が前に紹介した淀小橋跡の石柱がある地点です。

