長岡城(北越戦争レポート②)
河井継之助ゆかりの地長岡について今日から詳しく書いていきますが、最初は、長岡城について書きます。
新幹線で長岡駅に降り立って、長岡市内を歩いても、天守はもちろん、石垣や堀もまったくありません。そのため、現在の姿からは長岡が城下町だったということは想像できません。
しかし、よく見ると長岡駅大手口を出た駅前広場には、「長岡城本丸跡」という石柱が建てられています。(下写真)長岡駅そのものが長岡城の本丸なんですね。

さらに長岡駅から歩いて3分ほどの距離にあるアオーレ長岡の敷地内には と刻まれた 「長岡城址」と刻まれた石碑があり、「長岡城二の丸跡」と刻まれた石柱もあり、駅前が二の丸であったことがわかります。(下写真)

現在の姿からは想像できませんが、長岡駅周辺には、確かに長岡藩7万4千石のシンボル長岡城があったのです。
長岡には、江戸時代初めには城はありませんでした。
長岡に城を築いたのは堀直寄でした。
その築城にあたって、一匹の白狐が大きな役割を果たしたそうです。
『長岡藩』(稲川明雄著)には次のように書かれています。
長岡城建設責任者の普請奉行が、ある早春の朝、雪におおわれていた築城予定の平潟原に行くと、一匹の白狐があらわれ、一本の長い苧をくわえ、やがて、その苧を引きずりながら、はねまわっていました、普請奉行が、その苧のあとをたどってみると、それは城の縄張りになっていたそうです。そこで、普請奉行は、これをもとに設計図を描き、城の築城工事にかかったそうです。
長岡城は別名苧引形兜城といいますが、この名前は、そのときの白狐の啓示に感謝したものだと伝えられているそうです。
この時の白狐を祀った城内稲荷神社が、二の丸跡を示す石碑の脇に鎮座しています。

長岡城には、本丸、二の丸、三の丸、曲輪、詰の丸があり、城は1キロメートル四方の広さがあり、石高に似あわず規模の大きな城でした
長岡城は、本丸の西側に二ノ丸があり、さらにその西側に大手門がありました。この大手門のさらに西を信濃川が流れていました。
天守はありませんでしたが、それに替わる「三階櫓」がそびえたっていました。「御三階櫓」は、本丸の西北角にあり、八方正面と呼ばれ、どこからみても正面にみえる櫓でした。下写真は「牧野家史料館」に展示されていた復元模型です。

現在、長岡城の面影がないのは、『長岡藩』(稲川明雄著)によれば、戊辰戦争の影響のようです。
北越戊辰戦争の際に、新政府軍の攻撃により落城し、それを長岡藩側が奪還し、さらに新政府軍により落城するという、三度にわたる戦いでほとんどの建物が焼失してしまいました。
そして、焼け残った二つの隅櫓と二つの城門は近郊の豪農に売り払われているそうです。
戊辰戦争後、長岡藩士とその家族が食べるものがなく、長岡城の城跡は、開墾され、田畑に変えりました。また一部は学校や役所の用地となりました。
このように農地などに利用されていた城跡に、明治31年、北越鉄道が横断することになり、本丸跡に長岡駅ができて、それを中心に市街地が形成されることになりました。
なるほど、だから、長岡には城下町の面影がないんですね。

