河井継之助が休息した「東忠」(北越戦争レポート⑨)
河井継之助(つぎのすけ)は、小千谷会談で岩村精一郎から冷たくされても、すぐにあきらめたわけではないようです。
司馬遼太郎の「峠」によれば、慈眼寺でも、また宿に戻っても、繰り返し再会談を申し込んでいます。しかし、その度に拒絶されています。
実際は、「峠」に描かれたほど繰り返されたかは疑問のようですが、河井継之助(つぎのすけ)は再会談の申し入れをしているようです。
『決定 河井継之助』では、「翌朝、本陣前まで行くが、相手にしてもらえずそのまま帰った」と書かれています。
『河井継之助の真実』では「新政府軍として出兵している加賀・尾張・松代などの諸藩の重役に嘆願書受の仲介の労を取ってほしいと交渉。だか、河井の願いを拒絶している。河井は、慈眼寺の山門の周辺を深夜までウロウロしていたという」と書いてあります。
新政府軍としては、小千谷の北方に迫る会津藩を中心とした奥羽列藩同盟軍との戦いに気がとられたという面があると思います。
また、新政府軍に参加した諸藩としては、恭順を示している立場であり、あまり長岡藩に肩をもつと、あらぬ疑いをかけられるという心配もあったものと思われます。
こうした河井継之助(つぎのすけ)の再会談の申し入れも拒絶され、ついに談判は不調となります。
小千谷会談の後、新政府軍との工作を続けるため、河井継之助(つぎのすけ)が休息・待機したのが慈眼寺近くの料亭「東忠」です。
この料亭「東忠」が現在も小千谷に残されています。しかも気軽に食事を楽しめましたので、ランチを食べてきました。
東忠は1730年頃(享保ごろ)に創業されたと伝えられる歴史のある料亭です。
新潟県出身の田中角栄もしばしば利用したと言われています。
下の写真が、本館全景ですが、国の有形文化財に登録された建物です。

以前は、「一見さん、お断り」という格式の高い料亭だったそうです。
しかし、こうしたことから経営不振となり、昨年の秋に、一旦営業をやめたそうですが、今年の5月から営業を再開したとのことです。
以前の経営方針をすっかり変えて、だれでも気軽に楽しめるお店をめざして「居食亭(いしょくてい) 東忠」に名称を変更して営業をしています。

その通り、ランチは千円台で、ずいぶん安いと感じました。ランチは4週類ありましたが、私は「継之助御膳」を頼みました。

「継之助御膳」には河井継之助(つぎのすけ)が書した「桜飯」がついてきました。
「桜飯」と呼ばれるものは、刻んだ味噌漬けの大根をご飯のうえにのせたご飯ですが、味噌漬けの大根がまるで桜の花弁のようだったので桜飯と呼ばれ、河井継之助(つぎのすけ)が大変好んだと伝わっているそうです。

「桜飯」には、味噌漬けの大根を炊きこんだご飯もあるようです。
河井継之助をしのびながら、ゆっくり味わっていただきました。
食事の後、河井継之助(つぎのすけ)が談判の継続を望んで待機していたと言われる「梅の間」を見させてもらいました。
3階の大変眺望のよい場所にありました。

河井継之助(つぎのすけ)は、この部屋で、どんな気持ちで時を過ごしたんだろうと思うと、明るく差し込んでいた日の光が、一瞬、曇ったように感じました。

