榎峠・朝日山の戦い(北越戦争レポート⑩)
今日は、北越戦争でおける長岡藩と新政府軍の最初の戦い「榎峠・朝日山の戦い」について書きます。
小千谷会談に失敗したため、河井継之助(つぎのすけ)はついに新政府軍との開戦を決意しました。
河井継之助(つぎのすけ)は、5月3日、長岡城の南にある摂田屋村の光福寺に諸隊隊長を集めて、開戦を決意したと演説しました。 下が光福寺です。

そして、5月4日に、それまで明確な回答を与えていなかった奥羽列藩同盟に参加しました。ただし、河井継之助記念館の稲川館長が書いている「長岡城燃ゆ」によれば、『仙台戊辰史』などによると長岡藩が奥羽越列藩同盟に加わったのは慶応4年5月4日になっているが、長岡藩側の記録には奥羽越列藩同盟に加わったことについて触れた資料は一切ないとのことです。
これにより、長岡藩外で戦っていた会津藩や桑名藩、衝鋒隊などの部隊を、長岡藩内に迎えいれました。5月5日には、会津藩兵が、摂田屋の本陣に到着します。
長岡では、6日から9日まで暴風雨が続いたため、長岡藩と同盟軍が軍事行動を起こしたのは10日のことでした。
5月9日に長岡城で河井継之助(つぎのすけ)は、同盟諸藩らとの戦略協議を行ない、戦略的要所である榎峠を攻撃することにしました。

長岡城から南に下ると小千谷との境に、榎峠および朝日山という軍事的な要衝があります。
河井継之助(つぎのすけ)は、小千谷会談の前に意図的に、榎峠から長岡藩兵を引き上げていました。そのため、5月3日に、すでに新政府軍が押さえていました。
長岡城の西側は信濃川が流れています。榎峠は長岡城から見て信濃川の手前にあり、新政府軍の本営が置かれた小千谷は信濃川を挟んで対岸にありました。
そのため、河井継之助(つぎのすけ)は信濃川で分断されている榎峠・朝日山の新政府軍を攻撃し占領したのち、小千谷を攻撃しようとしました。
榎峠は、三国街道の難所として有名な場所で、峠の下は断崖となって信濃川に落ち込んでいました。下写真は榎峠古戦場パークの写真です。写真の右側を走るが現在の三国街道ですが、江戸時代には、左手の山の上を三国街道が通っていました。

長岡城下を進発した会津・桑名藩兵と旧幕臣の古屋佐久左衛門率いる衝鉾隊は、摂田屋村の同盟軍本営で長岡藩兵と合流し、榎峠をめざします。
榎峠を守る新政府軍は上田藩の1小隊と尾張藩の1小隊でしたが、同盟軍は、三国街道を南下する隊と山地を迂回する隊とに分かれて進撃しました。長岡藩軍事掛の萩原要人が率いる街道部隊は、榎峠を攻撃。同じく長岡藩軍事掛の川島億二郎の迂回部隊は、榎峠の新政府軍を背後から攻めました。
長岡藩兵および同盟軍は榎峠を占領しました。
翌11日、新政府軍は小千谷からの反撃を開始しますが、会津藩の佐川官兵衛らの働きもあり、同盟軍はこれを撃退し、さらに榎峠の南東にある朝日山を占領しました
開戦時、柏崎から小千谷に向かっていた山県有朋は、榎峠の銃声を耳にし、急ぎ小千谷の本営に駆けつけました。しかし、岩村精一郎ら現地幹部は給仕をはべらせて呑気に食事をしている有様たったため、激怒した山県有朋は、彼らの膳を蹴り上げて怒鳴りつけ、岩村精一郎から指揮権を剥奪したとも言われています。
山県有朋は、自分と同じく奇兵隊出身の時山直八とともに前線を視察し朝日山が重要という点で一致しました。
下写真は、越の大橋から撮った榎峠方面の写真ですが、奥側に少し高く見える山が朝日山です。

しかし、時山直八が奇兵隊だけで戦うことを主張したのに対して、山県有朋は全軍で戦うべきだと主張し、援兵を連れてくるため、いったん小千谷に引き上げました。
5月13日(司馬遼太郎の「峠」では5月12日としてありますが、ここでは河井継之助記念館の稲川館長の13日説をとっておきます)早朝、濃霧が立ち込める中、戦機到来と判断した時山は、山県有朋が援軍をつれて帰るのを待たずに、手元にいる奇兵隊200余名だけで、朝日山攻撃を開始しました。
朝日山を守っていたのは桑名藩雷神隊の隊長立見鑑三郎(尚文)などの部隊です。
立見鑑三郎は、際立った指揮ぶりで新政府軍を迎え撃ち、新政府軍の時山直八も雷神隊の銃弾に倒れ戦死しました。
この際、時山直八の部下は時山の首だけを持ちかえったそうです。
朝日山をめぐる攻防戦は、同盟軍側の完全勝利に終わりました。後に陸軍元帥までのぼった山県有朋も大きな衝撃を受けた戦いでした。
この時に詠んだ山県有朋の短歌がそれを如実に表しています。
仇(あだ=敵)守る 峠のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風

