長岡城落城(北越戦争レポート⑪)
今日は、長岡城の落城について書きます。
榎峠と朝日山を奪取した長岡藩に対して、新政府軍は即座に反撃を行うことができませんでした。
この攻防戦が行なわれた時期は、新暦でいえば6月でちょうど梅雨時にあたります。
通常の年であっても、雨が多く川が増水する時期ですが、慶応4年の梅雨は、例年よりも雨量が多かったそうです。そのため、信濃川の水量が増していて、新政府軍は、容易に攻撃をしかけることができませんでした。
一方、長岡藩にとっては、増水した信濃川が、新政府軍の西からの攻撃を防ぐ外堀の役割を果たしていました。
そのため、両軍とも、信濃川を渡河しての大規模な戦闘は行われず、信濃川を挟んで砲撃戦が展開されていました。
そのため、しばらくの間、持久戦の様相をみせていました。
そうした中で、河井継之助(つぎのすけ)は、5月19日の深夜、長岡城下南郊の前島村(長岡市前島町)から強行渡河して小千谷を攻略するという奇襲作戦を考え、19日には約600名の奇襲部隊が前島村への集結を完丁していました。
一方、新政府軍の山県有朋も、信濃川を強行渡河して長岡城を直接攻撃する奇襲作戦を立案します。
新政府軍は、高田に集結した後、山道軍と海道軍と分かれて、山道軍が長岡へ向かいました。そして海道軍は海岸沿いに柏崎をめざしていました。海道軍は閏4月27日に鯨波で桑名藩と戦った後、出雲崎に駐屯しています。
山県有朋は、この海道軍に依拠して、19日の早朝を期し、信濃川を強行渡河して長岡城西方の中島に上陸し一気に長岡城を攻略する作戦を立案しました。
そこで、山県有朋は出雲崎にいた海道軍の軍監三好軍太郎に相談しました。長州藩士であった三好軍太郎は大賛成でした。しかし、薩摩側には、梅雨で増水した信濃川を渡河するのは無謀だという消極論もありました。新政府軍側の薩長の内輪もめがあったようです。
河井継之助(つぎのすけ)と山県有朋が立案した奇襲作戦は奇しくも同日である29日決行でした。しかし、先に実行したのは、新政府軍側でした。
新政府軍は、19日早朝に攻撃を開始しました。
長州藩兵を先鋒とする新政府軍は、激流渦巻く信濃川を渡って、対岸の中島周辺に上陸しました。当日は、朝霧が濃く立ち込め、新政府軍の行動を隠蔽したことから、抵抗を受けることなく、信濃川を渡河しました。
長岡市中島1丁目には、「西軍上陸の地」と名付けられた史跡が残されています。(下写真)
教育委員会の説明板には「慶応4年(1868)の5月19日早朝、戦機を失うことをおそれて、西軍は洪水の信濃川を強行渡河して、長岡城を攻撃する策を立て、ここ中島に上陸した。長岡軍は必死に防戦したが、総退却し、ついに長岡城は落城した。長岡城最大の悲劇となった落城発端地点である」と書いてありました。

また、長岡市渡里町にある西福寺には「維新の暁鐘」と呼ばれる梵鐘が残されています。
この鐘は、長岡城が落城した5月19日の早朝、新政府軍の侵攻を城下に知らせるため、一藩士が鐘楼にかけのぼり、この鐘を乱打したといわれています。(下写真)
しかし、長岡藩側は、梅雨による信濃川の増水に頼っていて、信濃川を渡河して長岡城が直接ねらわれるとは全く思っていませんでした。そこで、榎峠・朝日山などの藩境に軍勢を集中していて、長岡城下には、軍勢が配置されていませんでした。城下に配置されていたのは老人兵や少年兵が多かったそうです。
そのため、防御力はあまりなく、やすやすと防衛ラインを突破されていきました。

河井継之助(つぎのすけ)は、新政府軍側の奇襲攻撃の知らせを受けると、みずから摂田屋の本陣から馬で城下に向かい、新政府軍を前にして、ガトリング砲を大手門の前に配置し、みずから射撃手となって敵をなぎ倒そうとしたものの、左肩に銃撃をうけ城中に退かざるをえませんでした。
このため、長岡藩首脳部は城の死守を断念し、藩王の牧野忠訓と前藩主の忠恭は、会津を目指して栃尾方面へ脱出し、河井継之助(つぎのすけ)も城に火をかけ栃尾へ向かいました。

