八丁沖渡渉作戦(北越戦争レポート⑬)
今日は北越戦争のハイライト、八丁沖渡渉作戦について書きます。
八丁沖というのは江戸時代に長岡城の北東方向にある南北約5キロ東西約3キロの大沼沢地です。
明治以降の干拓工事により、現在は、広大な水田地帯となっていますが、現在でも大雨が降ると水を被ることがよくある地域だそうです。
今町陥落は、新政府軍に大きな衝撃を与えました。
参謀山県有朋は、防衛ラインを今町から南に後退させ、現在の長岡市北郊の田園地帯に新たな防衛ラインを構築しました。
一方、河井継之助は、今町の攻略以降、同盟軍との関係もあり大きな攻撃をしかることはできませんでした。
そのため、6月2日の今町攻略戦以後、北越戦線は膠着状態が続きました。
こうした中で、河井継之助、山県有朋はともに、膠着状態を打破する作戦を立案しました。
数に勝る山県有朋は、7月24日を期して長岡藩および奥羽越列藩同盟軍に対して総攻撃をかけようとしました。
一方、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖の中央を縦断して新政府軍陣地のある富島に上陸し、一気に長岡城を奪還するという奇襲作戦を立案しました。
八丁沖渡渉作戦の上陸地である富島は「八丁沖古戦場パーク」として整備されて、そこに「八丁沖古戦場の碑」(最上段写真)が建てられています。
石碑の向こう側には、今は水田となった八丁沖が広々と広がっていました。(下記写真参照)
長岡藩士の鬼頭熊次郎は、下級武士だったことから生活が苦しく、八丁沖で魚を捕獲して生計の足しとしていました。そのため、河井継之助(つぎのすけ)は、八丁沖の隅々まで知り抜いている鬼頭を呼んで、八町沖を偵察し、強行渡河の際は先導するよう命じました。
鬼頭熊次郎は、縦断は可能と進言し、先導の者は、鬼頭熊次郎ら士分5名と足軽5名計10名が選ばれました。
この人たちを先導として、長岡藩兵は、武器弾薬や食料を携行しながら膝上まで泥で沈みときには匍匐して泥の上をはい、八丁沖を渡っていきました。敵に察知されれば、奇襲計画は頓挫してしまうため、物音を立てないように細心の注意を払い前進しました。
作戦当日の天気は雨ではなかったため、月が雲間から姿を表せば、全軍が沼地に身を伏せて月が隠れるのを待ったそうです。
こうして、先頭部隊は25日の午前2時頃には富島村から数十メートル手前の地点に到着しました。しかし、長岡藩兵は、ほとんど一列縦隊での前進したため、先頭部隊は沼地に伏せた状態で後続部隊の到着を待ちました。長岡藩の600名もの兵士が八丁沖をわたりきるのに6時問前後をかかったそうです。
こうして、新政府軍に気づかれずに八丁沖を渡った長岡藩勢は、午前4時、富島の新政府軍を攻撃しました。
この時、先導を勤めた鬼頭熊次郎は上陸時の戦いで命を落とします。
「八丁沖古戦場パーク」近くの日光社の境内には「鬼頭熊次郎顕彰碑」が建てられています。(下写真)
新政府軍は八丁沖の中央を縦断してくるとは全く予想していませんでした。それは当然だと思います。当時の八丁沖は葦の生い茂る沼地で、しかも例年より降雨量が多かったため、沼地も深くなっていたと思われます。
そのため、富島村の新政府軍部隊は、完全に不意を衝かれ、また、寝込みを襲われた守備隊は、ほとんど抵抗することもなく退却していきました。
新政府軍の抵抗がないなか、長岡藩兵は、夜が明けるころには長岡城下に突入し、長岡城奪還にも成功しました。
奇襲を受けた新政府軍の西園寺公望、山県有朋らの驚きはひと通りではなく、錦旗を守るのが精一杯で、信濃川西岸の関原方面へ退却していきました。
長岡藩の将兵は、長岡の町民だちとともに戦勝を祝しましたが、長岡藩側の勝利は一時的なものでした。
すぐに新政府軍の逆襲が始まったのです。
それについては、次回、書きます。