五稜郭(箱館戦争史跡めぐり②)
今日から、箱館戦争史跡めぐりについて書いていきます。
まず、最初は「五稜郭」です。
五稜郭は、星型をした西洋式城郭として大変有名です。
城郭というイメージが強いですが、天守はありませんでした。
中央にあるのは箱館奉行所でした。
五稜郭は、箱館奉行を防御するために造られたのです。

安政元年(1854)3月3日に締結された日米和親条約によって、下田と箱館が開港されることになり、下田は即日開港され、箱館は翌年の安政2年3月から開港されることになりました。
安政元年6月に幕府は松前藩から箱館とその周辺の地を上知させ、箱館奉行をおきました。
箱館奉行には竹内保徳そして堀利煕を任命しました。
安政元年12月、箱館奉行から、奉行所を箱館より北の亀田村に奉行所を移転しそれを守る土塁を建築したいとの伺書が出され、移転することが決定しました。
それから、約1年を経て、奉行所を守る土塁は西洋式土塁とすることとなりました。
これにより、五角形の星型をした五稜郭が築城されることになりました。
亀田村が選ばれたのは、海から3キロあまり離れていて、設計当初は艦砲射撃の対象にならなかったことと亀田川があり水利の便が良かったことが主な理由です。
建設工事は、安政4年(1856)に掘割工事が始まり、建物の建築は文久元年(1861)に始まり、完成したのは元治元年(1864)のことです。その後も、付帯工事が行なわれ、すべての工事が完成したのは、慶応2年(1866)です。
五稜郭は、星型をしていますが、正面入口に一つ、三角形の部分があります。
下写真の手前部分です。赤い屋根の建物が見える地点一帯です。
これは、半月堡と呼ばれています。当初の設計図では、星型の外側5か所に設置する計画だったそうですが、費用の面で、正面入口にだけ築造されたそうです。
当初の設計図どおりであれば、五稜郭は、星形の外に5つの突起部分があるという一層複雑な形となったはずです。

この五稜郭を設計したのは、武田菱三郎です。
武田菱三郎は、伊予国大洲藩士の次男として生まれました。18歳の時に大坂の緒方洪庵の適塾に入門しました。その後、江戸に出て佐久間象山のもとで砲術をまなび、象山の推挙で幕府に出仕しました。
安政元年には、堀利熙に従って蝦夷地巡察旅行に加わりました。樺太まで渡りました。
この時に、箱館奉行所が設置され、旅行が終わるとともに箱館詰となります。
安政3年には,箱館港防備のための弁天崎台場,安政4年からは箱館奉行所としての五稜郭の設計や監督を行いました
その一方で、安政3年に語学,航海,築城などを教える諸術調所が開かれると諸術調所教授となり、製鉄。造兵、築城、航海、捕鯨などという多方面の分野にわたって指導しました。
ここでは、幕臣とか陪臣とかの身分を問わずに教育する方針でしたので、希望者が各地から集まって来ました。
御用船亀田丸を指揮してロシアのニコラエフスクまで交易に出掛けるなど実践を重んじた教育を行ない、前島密、井上勝、山尾庸三など明治になってから活躍する人々を育てあげました。
そして、元治元年(1864)開成所教授となり、箱館を去りました。
五稜郭の正面入り口を入ると、武田菱三郎の顕彰碑が建てられています。


