弁天岬台場(弁天台場) (箱館戦争史跡めぐり④)
箱館戦争史跡めぐりの4回目には、弁天岬台場(もしくは弁天台場ともいうようです)について書いていきます。
弁天岬台場は、現在の函館ドックの場所にありましたが、明治29年に港湾改良工事のため解体されました。
そのため、弁天岬台場そのものは残されていません。
函館市電「函館どつく前」電停のすぐそばの児童公園に「弁天岬台場跡」の説明板が設置されています。(下写真参照)

箱館奉行は安政元年12月9日、外国船に備える砲台などが整っていないとして、矢不来、押付、山背泊、弁天岬、立待岬、築島、沖の口番所の七か所をあげて、台場の修築ないし新築の必要を老中へ上申しました。
しかし、幕府は一挙に取りかかるのは無理と判断し、最も重要と思われる弁天岬、築島から築造することになりましたが、実際に着工できたのは弁天岬台場だけでした。
弁天岬は港内第一の要地であるため、海岸の暗礁の上に、三方面に対応した台場を造れば、函館港と市中の防衛になると考えられました。
台場の設計は五稜郭と同じ武田斐三郎が担当し、台場の建設費用は10万両の計画で、安政3年から工事が始まり、土や石は箱館山のものを使い、重要部分は備前御影石を大坂から運んで、文久3年に完成しました。
台場の形状は不等辺六角形をしていて、周囲は390間余(約710メートル)あり、高さ約37尺(約11.2メートル)ありました。
台場には、15個の大砲が据え付けられ、山背泊からと合わせて十字射撃できるという構想でした。大砲のうち数門はロシアのディアナ号に備えつけられた大砲を贈られたものでした。
箱館戦争では、榎本武揚艦隊は、明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に錨をおろし、翌日上陸しますが、直接、箱館に向かわなかった大きな理由の一つに箱館港には弁天岬台場があり、そこからの砲撃を避けることがあったようです。
榎本武揚軍が五稜郭に入城してからは、新選組など守備しました。
新政府軍が総攻撃をかけてきた明治2年5月15日に弁天岬台場は海上と箱館山側から攻撃されて台場に立て籠もっていた新選組さらに箱館奉行であった永井尚志らは降伏しました。
このため、新選組にとって最後の拠点でした。そこで近くの児童公園の弁天台場の説明板の脇には「新選組最期の地」と書かれた標柱が建てられていました。(下写真参照)

弁天台場には、明治20年まで陸軍省函館砲隊が入り、明治29年港湾改良で壊され、跡地に函館ドックができました。
この時の港湾改良を記念した石碑「函館港改良工事記念碑」が防波堤そばに設置されています。石碑の石は、弁天台場の土塁石垣に使用されていた備前産の御影石を再利用したものです。(写真右手が記念碑です)


