千代ケ岡陣屋(箱館戦争史跡めぐり⑤)
箱館戦争史跡めぐりの5回目は「千代ケ岡陣屋跡」を紹介します。
函館駅から五稜郭にむかう市電の「「千代台(ちよがだい)」電停の近くにある千代台公園の陸上競技場近くに説明板が設置されています。(下写真参照)

昔は鶴が飛来する岡だったので、江戸中期に八代松前藩主の室自正院文子が「千世の岡」と名づけた所とされ、「干代ヶ岡」や「千代ヶ台」と呼ばれましたが、「千代ヶ岱(ちよがたい)」とも呼ばれたそうです。
現在の説明板では、上記の写真でお分かりになると思いますが、「千代ケ岡陣屋跡」となっています。
千代ヶ岡陣屋は、幕府直轄時代の文化5年に蝦夷地出兵を命じられた仙台藩が陣屋を設営したのが最初になります。
その後、蝦夷地が再び幕府直轄となった安政2年に津軽藩が陣屋を設営しました。そのために津軽陣屋ともいわれたようです。
周囲には約3.6mの土塁が築かれ、その周りには約12メートルの堀が掘られていてき、そのなかに本陣や兵舎など建物がありました。
五稜郭を占領した榎本武揚軍は大砲を備えて陣営とし、中島三郎助らが守り、そして、ここで最期を遂げました。

中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。嘉永6年、浦賀沖に突如現れた黒船に最初に乗り込みアメリカ側と交渉した経歴があります。その後、長崎海軍伝習所の第一期生となり、3年後には軍艦操練所教授方となりました。
江戸城無血開城後、榎本武揚と共に蝦夷地にやってきました。
そして、中島三郎助は箱館奉行並として千代ヶ岡陣屋の守備につきました。
明治2年5月11日の新政府軍の総攻撃により箱館市内の大部分が制圧されると、新政府軍は、中島三郎助に降伏勧告をしましたが、中島はそれを拒絶して戦闘を続け、5月16日に長男恒太郎や次男英次郎と共に戦死しました。
「ほととぎす われも血を吐く 思い哉」という辞世の句を残しています。
陸上競技場近くの函館税務署の入口の緑地帯には、中島三郎助父子最後之地の石碑が建てられています。


毎年5月の箱館五稜郭祭では碑前祭が行われるそうです。
千代台公園の隣は中島町という町名で、中島小学校という小学校もありますが、これは中島三郎助に由来する町名です。
中島小学校のある場所が千代ケ岡陣屋の本陣があった場所だそうです。
明治時代には陣屋付近一帯が函館重砲兵連隊の陣地となり、第二次世界大戦後まで兵営所でしたが、戦後、競技場や野球場のある運動公園となったそうです。
町名も干代ヶ岱町だったが昭和43年千代台となったため、市電の電停も「千代台」となっています。

