五稜郭入城(箱館戦争史跡めぐり⑦)
今日は、旧幕府軍の五稜郭入城について書いていきます。
10月20日に鷲ノ木沖に到着した榎本艦隊は、人見勝太郎を使者として箱館府に派遣し、翌日21日に全部隊が上陸しました。
この時期の箱館はすでに新政府に接収されていました。
慶応4年閏4月、最後の箱館奉行杉浦誠は、旧幕府の指示で、新たに箱館府知事に任命された新政府の清水谷公考に、五稜郭にある箱館奉行所を引き渡していました。
旧幕府軍は、この清水谷公考あてに嘆願書を提出するために使者を派遣したのです。
人見勝太郎を派遣した後、旧幕府軍は、本隊と分隊に分れ、本隊は大鳥圭介が指揮し伝習隊・遊撃隊・新撰組が、大沼の西を通って五稜郭への本道を進み、海沿いの道を通って五稜郭へ向かう分隊は土方歳三が額兵隊などを指揮して進軍しました。
10月22日の夜、旧幕府軍の本隊と新政府軍は、峠下村(亀田郡七飯町)で戦闘状態に入ります。
新政府軍が人見隊を夜襲したのが箱館戦争の始まりです。
しかし、新政府軍の夜襲は失敗し、旧幕府軍の追撃を受けることになりました。
大鳥圭介は、10月24日、部隊を2つに分けて、大野村(同郡大野町)と七重村(七飯町)に進軍します。
大野村には大鳥率いる伝習士官隊と伝習歩兵隊が向かい、七重村には人見勝太郎が指揮する遊撃隊・新撰組・工兵隊が進みました。
大野村の新政府軍は五稜郭へ引揚命令があったため、大鳥圭介隊は楽勝でした。
一方、七重村では両軍が激突し、数に勝る新政府軍が優勢で旧幕府軍は苦戦を強いられますが、斬りこみによる白兵戦で形勢を逆転し、新政府軍は敗退しました。
敗戦の報せを受けた清水谷知事は、25日青森への撤退することにします。
諸藩の兵も外国船に高い乗船料を払って、次々に箱館港から脱出しました。
七重村に集結した旧幕府軍の大鳥圭介隊は、五稜郭を攻めるに慎重に対応し、25日は、五稜郭近くまで前進しただけです。
そして、10月26日、いよいよ総攻撃にかかり、五稜郭に向かいましたが、五稜郭はもぬけのからで、無血入城することができました。
一方、海沿いの道を進んだ土方歳三が指揮する額兵隊等の部隊は、新政府軍の抵抗はなく、25日には湯の川まで到着しており、26日、土方歳三が五稜郭に入城しました。
鷲ノ木沖で舵の修理をしていた開陽は11月1日箱館に入港し、榎本武揚も五稜郭に入城しました。
五稜郭タワーの歴史回廊には、五稜郭入城時のジオラマが展示されています。
上段の写真と下の写真が、そのジオラマです。