土方歳三の最期(箱館戦争史跡めぐり⑬)
今日は、土方歳三の死について書いていきます。
5月11日の新政府軍の総攻撃のなか、土方歳三は死去します。
土方歳三は、4月29日、二股口から五稜郭に引き上げました。
その後、5月1日は、弁天台場に行き、新選組の面々と再会しました。
5月11日に新政府軍の総攻撃が始まると、黒田清隆に指揮された新政府軍の奇襲部隊は、箱館市内の各所を抑え、新選組が守る弁天台場は孤立しました。
そこで、土方歳三は、箱館市内を奪還し、弁天台場を救出するために、額兵隊、三国隊、伝習隊など500名の兵を率いて、五稜郭を出撃しました。
そして、千代が岡陣地と弁天台場の中間付近にあった一本木関門で新政府軍と戦いが始まりました。
その戦いの最中、土方歳三は、腰に銃弾をうけ落馬し命を落としました。
一本木関門があったと言われる場所近くの函館市総合福祉センターの敷地内に、土方歳三最期之地の碑が建っています。
その碑の奥には、一本木関門の模型も造られています。(下写真参照)
一方土方歳三は異国橋付近でなくなったという説もあります。
新選組隊士の中島登の記録には、土方歳三は、一本木関門を抜けて、箱館市内の異国橋あたりに至って、馬上で指揮しているところ銃弾にあたり落命したと書かれています。
異国橋は、現在の市電の十字街電停近くにあった橋でした。
現在は川が埋立られてしまい、異国橋は残されていません。
電停近くの十字街派出所が目印となります。(下参照、写真正面の建物が派出所です。)