松平斉民の墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人②)
谷中霊園に眠る幕末有名人の2回目は松平斉民のお墓です。
松平斉民といっても御存知の方は少ないと思います。それこそ「知る人ぞ知る」という人物かもしれません。
松平斉民は現在の岡山県にあった津山藩藩主です。号は確堂といいます。
明治維新期には、徳川宗家16代徳川家達の後見人を勤めた重要人物で、彰義隊を公認した人物として有名です。
松平斉民のお墓は、徳川慶喜の墓所のすぐ近くにあります。
周りを圧するほどの大きな墓碑が非常に目立ちます。
津山藩は結城秀康を藩祖とする越前松平家の宗家筋の家柄で、譜代の名門です。
徳川家康の次男結城秀康は越前で67万石を領していました。しかし、2代目忠直が乱行したため改易となり、忠直の弟の松平忠昌が藩主となりました。忠直の長男光長が越後高田藩26万石となりました。しかし、松平光長も、5代将軍綱吉の代の越後騒動のため改易となり配流されました。
その後、光長は許され、結城秀康の曾孫である武蔵川越藩の松平宣富が養子となり、宣富が津山を領することになり、名門松平家が津山藩10万石藩主として復活しました。
これが津山藩松平家です。
ちなみに松平春嶽(慶永)が越前福井藩主として有名ですが、松平春嶽(慶永)が継いだ福井松平家は、忠直改易後に福井に入封した忠昌の子孫です。
松平斉民の墓碑には「文定院殿成譽寂然確堂大居士」と刻まれていて、号の「確堂」が法名の中に入っています。下段写真参照
松平斉民は11代将軍徳川家斉の16男として生まれ、文化14年(1817)津山藩7代藩主松平斉孝の養子となり、天保2年(1831)に藩主となり、藩政改革に力を入れました。
嘉永6年(1853)のペリー来航時の際には、明確な開国論の意見上申しているとのことで、大変注目していいと思います。
しかし、斉民は、安政2年(1855)に、「勝手向き不如意」を理由に先代藩主の四男慶倫に家督を譲って隠居し、確堂と号しました。
その後も家斉の子供であるということとその人柄から徳川家では重きをなしていました。
そうしたことも大きな理由だと思われますが、松平確堂は、江戸城無血開城後の5月3日に新政府より、徳川宗家を相続した亀之助(家達)の後見人を命じられました。
また、加来耕三「上野彰義隊」によれば、彰義隊の渋沢成一郎を謁見し公認したのは松平確堂であると次のように書かれています。
松平確堂は、若年寄川勝広運(ひろかず)の名前で彰義隊の渋沢成一郎を呼出します。
渋沢成一郎は100人程の彰義隊士を率いてと江戸城に登城し川勝広運と面会します。その席に、松平確堂が現れ謁見し「あっぱれな武士である」と述べたそうです。
その後、渋沢成一郎に「奥右筆格渋沢成一郎 彰義隊頭取仰付られる。席高之儀は之迄之通り、相心得えるべし」とされ、彰義隊は徳川家の公認団体となりました。
これにより、彰義隊が江戸市中取締をおおっぴらにできるようになりました。