三野村利左衛門(幕末・維新を乗り切った商人たち③)
幕末・維新を乗り切った商人たちの3回目は、三野村利左衛門です。
三野村利左衛門を知っている人は少ないかもしれません。
私は、小栗上野介忠順の遺族を保護した人物として、小栗上野介忠順の事績をたどるなかで知りました。
三井財閥の基礎を固め、三井中興の祖とも呼ばれる三野村利左衛門は、旧庄内藩士・関口正右衛門の孫で、鶴岡が出生地と伝えられています。
7歳のとき父松三郎が、浪人生活に入り、諸国を流浪した後、天保10年(1939)、19歳で江戸に出て、深川の干鰯(ほしか)問屋丸屋へ住み込み奉公をし、丸屋のつてで駿河台の旗本小栗家の中間として雇われました。
ここで、後に幕府勘定奉行となる小栗忠順と知り合います。
このころ、小栗忠順は10代でしたが、6歳年上の三野村利左衛門とは年が近いこともあって親しい主従となりました。これが三野村利左衛門の人生に大きな好影響を及ぼすことになります。
やがて、三野村利左衛門の仕事ぶりが注目され、神田三河町で油・砂糖などを商っている紀ノ国屋美野川利八に見込まれ、弘化2年(1845)に利八の娘なかの婿養子になり、利八を襲名します。
紀ノ国屋は零細な商家で苦労の連続でしたが、金平糖の行商をしながらお金を蓄え、三野村利左衛門が32歳の安政2年(1855)に小さな両替商を開業しました。
両替商となった利八は、雇い主である勘定奉行小栗上野介忠順の屋敷で、天保小判1両を万延小判3両1歩2朱(3倍強)と換価する旨の布令が出ることを耳にしました。
これは洋銀との交換比率を是正するための措置ですが、天保小判を持っていれば3倍の万延小判に換価できるため、天保小判を大量に買い集め、大きな利益を得ました。
こうした機敏な三野村利左衛門の行動が、付き合いのあった両替店の関係で、三井両替店の主席番頭斎藤専蔵に認められ、三井両替店に出入りするようになりました。
その頃、三井には、幕府から多額の御用金の要請がありました。
しかし、三井の内情は厳しく、越後屋の不振とともに両替店は長期不良貸し金の累積などで資金繰りが圧迫されて瀕死の状態にありました。
そこで、最後の手段は勘定奉行の小栗上野介の力にすがり、御用金の減額を頼むほかないとなり、三野村利左衛門を通じて依頼することになりました。
この時、三野村利左衛門は、小栗上野介に三井の窮状を力説し、御用金50万両のうち18万両を分納、残額を免除してもらうことに成功しました。しかもその後、三井家には幕府から御用金は一切なかったそうです。
三野村利左衛門は三井の危機を救ったことから、慶応2年、三井に「通勤支配格」(役員待遇)という破格の条件で雇われることになりました。
三井では、幼い時から丁稚奉公をして徐々に出世していく慣習があり、40代の男がいきなり役員待遇で抜擢されるというの異例中の異例でした。
この時に名前も「三野村利左衛門」と改めた。「三野村」という姓は三井の三と、紀ノ国屋の姓である美野川の野、父の養家の姓である木村の村をとったものといわれています。
王政復古後、三井が一早く新政府に多額の資金を融通するようになったのは、三野村利左衛門の進言によるものと言われています。
明治になってからは、三井家の家制と家業の改革に着手し、呉服業(現在の三越)を分離し、三井銀行と三井物産会社の創設するなど三井の「大番頭」として、その本領を発揮し、明治から昭和に至る三井財閥の基礎を作り上げました。
三野村利左衛門は、いち早く新政府に肩入れする一方で、恩を受けた小栗上野介忠順への恩義も忘れてはいませんでした。
小栗上野介忠順が勘定奉行を罷免され領地の上野国権田村に引きこもろうとした際には、亡命資金の準備をしたうえでアメリカ亡命を勧めたと言われています。ただし、小栗上野介忠順はこの話を断っています。
また、小栗上野介忠順の遺族である道子と国子を深川の屋敷に引き取り、その保護および養育にも力を注ぎました。
このように恩義にも厚い三野村利左衛門は、明治10年、胃がんのため病死しますが、その功績から「三井中興の祖」と呼ばれています。