大倉喜八郎(幕末・維新を乗り切った商人たち⑥)
幕末・維新を乗り切った商人たちの第6回は、大倉喜八郎です。
大倉喜八郎は、お題テキスト「「疾走!幕末・維新」では取り上げられていませんが、戊辰戦争と大きく関わりがあり、戊辰戦争の中で、商売に成功し、後に大倉財閥を作り上げましたので、取り上げておきます。
大倉喜八郎は、天保8年(1837)新潟県新発田の代々の大名主で苗字帯刀を許された家の三男として生まれました。
安政元年(1855)、江戸に出て、麻布の鰹節店に商売見習いとして3年間住み込み修行し、主人から養子になるように望まれましたが、独立して、下谷の摩利支天横町(現在のアメ横)に乾物店を開業しました。
乾物店を経営しながらも、新しい商売を見つけるため、喜八郎は横浜に向かいました。
大倉喜八郎は、横浜で黒船をみて、天下が一変することを予想し、その時に、「必ず戦争が始まり、戦が始まれば武器が必要になる」と考え、乾物屋をたたみ、八丁堀にあった小泉屋鉄砲店で鉄砲のことを修行した後、神田和泉橋通に「大倉銃砲店」を開業しました。慶応3年2月のことです。
戊辰戦争を目前に控えた時期で、洋式兵器の注文が、幕府や諸藩から大量に舞い込みました。
新政府軍が上野の山に立てこもった彰義隊を攻撃する前夜に大倉喜八郎は突然、彰義隊に連行され、新政府軍に鉄砲を売っていることを詰問されますが、それに対し「官軍は現金払いなので売ったまでです」と説明し、窮地を脱しました。
また、箱館戦争の際に、弘前藩から、鉄砲の依頼がありました。ただし、代金はお米で払うとう申出でした。この時、大倉喜八郎は、「弘前藩」からの依頼に対して、「運試しにひとつやってみる。もしこれが失敗するようなことなら、自分に運がないのだと諦めるより以外にない」と考えいさぎよく引き受けました。
そして、自分の財産を残らず売り払って金にし、これで小銃2500挺と弾薬を整え、ドイツの帆船を雇って、それに鉄砲弾薬一切を積みこみ、自分もその船に乗り込んで青森にむけて出帆しました。
しかし、青森を目の前にして、風の方角がかわり、箱館に寄港せざるをえなくなりましたが、箱館は、当時、旧幕府軍が占領しており、発見されれば、武器を押収され、大倉喜八郎の命も危なくなるという危機に瀕しました。しかし、運よく、この危難も脱し、やっと青森に入港し、鉄砲を渡し米を受け取ることができました。
維新後は、明治5年に民間人としては初の欧米経済事情の視察に出発し、欧州滞在中に岩倉使節団と交流しています。帰国後の明治6年、大倉組商会を設立して海外貿易事業に乗り出しました。
また、大倉喜八郎は、新橋駅建設工事の一部を請け負い、明治5年には銀座煉瓦街の建設工事の一部を請け負い、土木建築事業にも進出しています。
その後、大倉喜八郎は、明治政府の御用達商人となり、台湾出兵、西南戦争、日清戦争、日露戦争の軍需物資調達で巨利を得ました。
この間、大倉組商会は合名会社大倉組に改組され、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする大倉財閥の体制を確立していきました。
なお、ホテルオークラは、大倉喜八郎の自宅に喜八郎死後に建てられたもので、隣接する大倉集古館も大倉喜八郎が設立したものです。
大倉喜八郎は、昭和3年に大腸がんのためなくなり、護国寺に眠っています。
下記写真が大倉喜八郎のお墓です。