最新鋭艦「開陽丸」
昨日まで『幕末・維新』を乗り切った商人について書いてきました。まだ書きたい人がいるのですが、幕末・維新の軍艦「開陽丸」と「甲鉄艦」についても江戸検前に書いておきたいので、今日は「開陽丸」について書きます。
開陽丸は、当時、最新鋭の軍艦で、幕府海軍の旗艦として、新政府軍に無言の圧力をかけていましたが、蝦夷地江差沖で座礁沈没するという悲劇的な最期を遂げます。下記写真は、函館市立博物館に展示されていた開陽丸の模型です。
幕府は、海軍力を強化するため、アメリカに2隻の軍艦を注文しました。しかし、アメリカで南北戦争が勃発したため、アメリカでの建造が困難になりました。
そこで、文久2年にオランダに軍艦1隻を注文することにしました。
その際に、造船技術の研究と軍艦建造の監督のため、留学生を一緒に送ることにしました。その留学生に選ばれたのが、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松大三郎などでした。
この発注により建造された軍艦が開陽丸です。「開陽」とは「夜明け」という意味です。
幕府からの注文は、最新鋭の軍艦を建造してほしいというものでした。
完成した開陽丸は、400馬力、砲26門を装備した当時最強の新鋭艦でした。
オランダで開陽丸の建造を指揮した海軍大臣は、長崎伝習所で榎本武揚たちを指導したことのあるカッテンディーケでした。そのため、慶応元年9月に行われた開陽丸の進水式も、オランダを挙げて盛大に行われました。
完成した開陽丸には、榎本武揚ら9名の留学生が乗り組み、慶応2年12月にオランダを出発し、大西洋、アフリカ南端を通り、インド洋を経て、慶応3年4月に横浜に回航されてきました。
この開陽丸が加わったことにより、幕府海軍は、諸藩に抜き出た強力な海軍となりました。
この時、開陽丸の艦長に、榎本武揚、副長に沢太郎左衛門が任命されました。
開陽丸は、鳥羽・伏見の戦いが勃発した際に、1月4日に阿波沖で、薩摩藩の「春日」と戦っています。これが日本における初めての洋式軍艦同士の海戦でした。
そして、1月7日、艦長の榎本武揚が上陸している間に、徳川慶喜が、開陽丸に乗りこんできて、江戸に帰るよう指示されました。
しかし、副長の沢太郎左衛門は、榎本武揚の命令がないと出発できないと抗弁し、1日ほど、大坂湾内を航行して、榎本武揚の帰りを待ちましたが、いらだつ徳川慶喜が、沢を艦長に任命し出発を命じ、正月11日に品川に帰還しました。
その後、4月11日の江戸城開城の際、榎本武揚は、開陽丸をはじめとする幕府海軍の引き渡しを拒み房総沖に脱走したものの、勝海舟の説得もあって、古い軍艦だけを新政府軍に引き渡し、開陽丸をはじめとした新鋭艦を保有し続けました。
そして、8月19日に、榎本艦隊は、品川を発って北に向かいました。
しかし、出航直後に暴風雨に襲われ、開陽丸も舵を壊され、8月26日にようやく仙台領に到着しました。
9月15日仙台藩が降伏したため、榎本武揚は、さらに北上し蝦夷地をめざしました。
明治元年10月20日に蝦夷地鷲ノ木に投錨し、翌日陸軍を上陸させ、開陽丸は、舵の修理を行った後、箱館港に入港します。
旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始し、その援護のために榎本武揚自らが開陽丸に乗船し、箱館を出港して江差沖へ向かい、11月14日に江差沖に到着し、江差占領を支援しました。
しかし、翌15日夜、天候が急変し、開陽丸は座礁し、数日後に沈没してしました。
中公新書「大鳥圭介」(星亮一著)には、「開陽丸は本来であれば大事に扱うべきであったが、陸軍の大勝利につられて海軍も出動し、榎本武揚が動くほどのこともなかったにもかかわらず、不用意に自ら開陽丸丸に乗り出航させたことが、悲劇を招いた」と厳しい口調で書かれています。
開陽丸の生涯は、当時、最新鋭の軍艦でしたが、日本に回航されてきて、わずか1年6か月ほどで沈没するという短いものでした。