宇田川榕庵(津山藩の洋学③)
今日は、津山藩の洋学の3回目で、宇田川榕庵について書きます。
この宇田川榕庵が、今回の江戸検で出題された人物です.
宇田川榕庵の「榕庵」は、「榕菴」とも書き、「榕菴」の割合が多いようにも思いますが、江戸検の問題では「宇田川榕庵」となっていますので、ここでは「宇田川榕庵」として書いていきます。
宇田川榕庵は、大垣藩医江沢養樹の子供として生まれました。
14歳で宇田川玄真の養子となり、文化14年(1817)津山藩医となりました。
江戸のマルチ学者ともいわれる宇田川榕庵の著述書は、数多くありますので、代表的なものだけを紹介していきます
『哥非乙(こうひい)説』
この本は、文化13年(1816)つまり、宇田川榕庵が津山藩医になる前年に書いたコーヒーの産地、効用を説いたものです。宇田川榕庵はわずか19歳のときでした。
Coffeeの日本語表記である「珈琲」は、宇田川榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われています。この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されているそうです。
『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』と『植物啓原』
宇田川榕庵はショメルの百科事典を読んで、西洋には実用的な本草学とは別に、植物自体の構造や生理を探求する植物学があることを知り、日本初の植物学書『西説菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』(経文形式)を文政5年(1822)に出版しました。
「菩多尼訶(ぼたにか)」というのは、ラテン語で植物学を意味するbotanica からとったものです。「経」となっているのは、お経のように折り本形式となっていることからつけた名前です。
そして天保5年(1834)に本格的な植物学書『植学啓原』を出版しました。
こうした植物学についての書物の中で、現在も使われている雌花、雄花、花柱、葯、柱頭などの訳語が作られています。
『舎密開宗(せいみかいそう)』
天保5年(1834)に、宇田川榕庵は、宇田川玄真を手伝って薬学書『遠西医方名物考』の補巻を刊行します。
『遠西医方名物考補遺』巻7~9は「元素編」には元素のことが書かれています。
この「元素」も榕菴の作った言葉で、そのほかに、酸素、窒素、水素、炭素、分析、気化、酸化、酸、アルカリ、中和、塩、酸化物など今日も使われている化学の基礎的用語が宇田川榕庵によって作られました。
その3年後の天保8年(1837)からは、日本で最初の本格的な化学書『舎密開宗』の出版を始めました。「舎密」とはオランダ語の「セーミ」に当て字をしたもので、セーミとは化学のことです。『開宗』とは「ひらく」という意味です。
『舎密開宗』は初篇から六篇18巻を刊行した後、外篇3巻まで刊行されます。
この『舎密開宗』の刊行は、榕菴が亡くなったために途中で中断してしまいますが、宇田川榕庵によって日本の近代化学が始まっているのです。
以上が代表的な書物ですが、こうした実績のほか、宇田川榕庵は、文政8年(1825)に養父宇田川玄真とともに日本ではじめて現在の化粧せっけんに近い品石鹸を製造しています。
宇田川玄真と宇田川榕庵が作った石鹸は、薬用と使用されたようです。
また、宇田川榕庵はシーボルトとも親交がありました。
シーボルトが、文政9年(1826)にオランダ商館長の江戸参府に従って江戸に滞在した際に、宇田川榕庵は、本石町の長崎屋を訪ね、シーボルトと交流しました。
シーボルトが贈った顕微鏡が、現在も早稲田大学図書館に残されているようです。
宇田川榕庵には実子はなく、大垣藩医飯沼慾斎(よくさい)の子興斎を養子に迎え、弘化3年(1846 )6月22日に49歳の若さで亡くなりました。
宇田川玄真の弟子で江戸で蘭学塾を開いて緒方洪庵や川本幸民などを育てた坪井信道は、緒方洪庵に「残念千万」と、その死を悼んでいます。