高松凌雲のお墓(谷中霊園に眠る幕末の有名人⑪)
谷中霊園に眠る幕末の有名人の11回目は高松凌雲について書きます。
箱館戦争を勉強した人は高松凌雲を知っていると思いますが、高松凌雲はあまり有名ではないように思います。
高松凌雲は、榎本武揚とともに蝦夷地にわたり、箱館戦争の際に、箱館病院の頭取を務め、敵味方なく、戦傷者を治療したこと、そして、榎本武揚に降伏を進める新政府軍との仲介を勤めたことで有名です。
高松凌雲のお墓は、徳川慶喜の墓所の西側にあたる谷中霊園乙5号2側にあります。

高松凌雲は、天保7年に、筑後国御原郡古飯村の庄屋高松家の三男として生まれました。幼名権平,のち荘三郎といいました。3歳のうえの兄に古屋佐久左衛門がいます。
高松凌雲は、24才の時にて医学の道を志します。江戸で蘭方医石川桜所のもとで医学の修行をした後、大阪の緒方洪庵の適塾に入門しました。
慶応元年(1865)一橋家に仕官し、この時に高松凌雲と改名しています。
慶応2年、徳川慶喜が将軍になったことから将軍徳川慶喜の奥詰医師を命ぜられました。
慶応3年に、パリ万博に派遣された徳川昭武(慶喜の実弟)に随行してフランスに渡り、パリ万博終了後、そのままパリにとどまり、医術の研究を続けました。
しかし、翌年、戊辰戦争勃発の報せを受け、急遽帰国の途につきます。
帰国後は榎本武揚と一緒に蝦夷地に向かいました。
高松凌雲について書いた小説に「夜明けの雷鳴―医師 高松凌雲」があります。
非常に丁寧に高松凌雲について書いてあります。
特に箱館戦争の際の高松凌雲の活躍が劇的に書かれていますので、関心のある方はご一読されるのをお勧めします。

高松凌雲の箱館戦争ですの主な功績は、①敵味方の別なく治療に従事したこと、②新政府軍の病院への侵入および患者の殺害を防いだこと、③榎本武揚に降伏を勧める手紙を送ったことだと思います。以上箱館戦争での出来事は、「夜明けの雷鳴―医師 高松凌雲」に基づいて書いてみます。
蝦夷地についた高松凌雲は榎本武揚から箱館病院の頭取を依頼され、全権を一任されることを条件に受け入れました。
頭取就任早々に、新政府軍の6人の負傷者が運ばれてきました。
この時、敵の負傷者が運ばれてきたため、病院内は騒然としましたが、高松凌雲は直ちに負傷者を病院に収容し治療を施し、傷病の癒えた箱館府の6人を清水谷の逃亡先・青森に送っています。
これは、高松凌雲がパリで見た負傷して戦闘力のない者は敵味方の区別なく治療するという見聞に基づいた対処でした。
明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を行いました。その際に新政府軍が病院にも押し寄せてきました。その際、高松凌雲は、負傷者は敵対するものではないので、助命して欲しいと訴えました。この訴えを聞いたのが薩摩藩の隊長山下喜次郎でした。
山下喜次郎は病院を離れる際、門前に大きな「薩州隊改め箱館病院」の木札を掲げることを認め、これで、箱館病院への新政府軍の攻撃から守られました。
しかし、髙龍寺に設けられていた分院には、松前藩が押し入り、入院していた負傷者たちが殺害されるという最悪の事態となってしまいました。
数日後、五稜郭と弁天砲台に和平の勧告を仲介してもらうため、薩摩藩軍監村橋直衛と藩士池田治郎兵衛が箱館病院にやってきました。
高松凌雲は、最初、村松の依頼を断りましたが、繰り返し強い要請があり、高松凌雲は、その要請を受けて、榎本武揚に降伏を勧める手紙を書きました。
この手紙に対して、榎本武揚は、拒絶してきましたが、その手紙をともに送ってきたのが有名な「海律全書」です。
五稜郭開城後、高松凌雲は阿波藩預けとなりますが、翌年には罪を赦されます。
そして、徳川慶喜の意向を踏まえて、パリに随行した徳川昭武が水戸藩主となっていたことから、水戸藩に出仕します。しかし、水戸藩は、高松凌雲を拘束することなく、時々、藩邸に出張すればよいという扱いであったので、東京浅草に医院を開きます。
しばらくして、新政府の兵部省に出仕して軍医頭となっていた松本良順から新政府への出仕も勧められますが、その要請を断りました。
その後も、土佐県や福山県、さらに博愛社を設立した佐野常民からの要請も断わり、民間での治療を選び、明治12年、同愛社を設立して貧民救療事業に専念したいます。
同愛社は民間社会福祉事業の先駆とされています。
そして、高松凌雲は、大正5年東京の自邸で81才の生涯を閉じました。

